家族の絆

 そういえば出張中に仙台駅近くのビルのオープンスペースで家族の絆展という写真展をやっていたので、ぶらりと眺めてきました。

 http://www.tohokupgc.net/kizuna/index.html

 「家族の絆」を写真として表現するとなると、どうなるかと言うと、当たり前だと思いますがそこに展示されているものは、二人以上の「集団」の写真がほとんどでした。「絆」というのが人と人との関係だとすると、また、常識的な家族のイメージが性愛に基づく結合だとすると、何人かの人々が被写体となっていることになります。複数世代・兄弟家族含めた大家族、三世代家族、親と未婚の子供たちの核家族、夫婦、これらの集団の写真がほとんどでした。
 では、集団ではない写真、つまりピン(単独)の写真がなかったかと言うと、ありました。では、一体それはどんな写真だったでしょうか?私が見た限りだと、それは、妊娠している女性を撮った写真です。お腹を抱えていて、その大きさが強調されていました。そこには、性愛関係がある(あった)ということと、女性の身体の内に我々と同様に社会や家族を形成する人となる存在がいる、ということが表現されていました。
 さーっとみたので、私が気づいたのは以上のような写真群だけでしたが、他にピンで「家族の絆」を表現するとしたら、撮影する人と被写体との間に「家族的な絆がある」ことが想像できるような写真でしょうか。他の人との間では決して見せない笑顔とか表情。それこそがかけがえのない「家族」である証となるのかも。しかし、それは一枚の写真で表現し切るのはむつかしいのかもしれません。私たちはその人たちの普段を知らないのですから。
(※この言い方は極端かもしれません。実際には、私たちは何らかの表情とかしぐさという「家族らしさ」の表現となる記号という常識的な知識から判断していることになるのだと思います。あと被写体を子どもにすると、それは表現しやすいのかも。「作り笑い」をあまりしないであろうという想定が大人よりも成立しやすいだろうから)。

 とまあ、そんな風に考えてみると、親密な関係性にある人たちの間で撮った写真を「他人」として観ることは、実は、見せる当人たちには想像すらできない「退屈な」ことだよね、などと、シニカルなことも考えてしまいます(笑)。いや、こんなことを書くとひどい人間に思われてしまいますかね…。フォローしておくと、私は人の恋人とか家族の写真見るのは好きなんですよ、その人がそれを熱心に見せたがっているという事実も含めて(さらにドツボか…w)。