家族関係論12回の補足

 DVD流せないという惨事…ということですみませんでした。別のデッキを使えば行けてたのに…。
 そんなわけで、当初の予定を変更し、次回は里親制度の映像を二つみることにして、残りの二回は貧困と家族の話と障害者の脱家族かな…。貧困だけに絞ろうかな。一回分くらい長尺のドキュメンタリーと映画みようかと思ったけど、ちと無理ぽいです。以下、今日の授業の里親と養子の話について、参考になるページを紹介しながら補足します。(後で書き直すかもしれませんが、ひとまず公開)。

  • 血縁と養子制度

 下記のページに、養子縁組を専門とされている社会学者の野辺陽子さんの解説があります。ここを読めばかなり理解が深まります。なので読んでください。

http://www.babycom.gr.jp/pre/funinn/youshi.html#1

 今日いただいたコメントと関連付けて、少しだけ上記ページの内容の紹介をしておきましょう。まず、上記ページのデータから分かるのは、養子縁組は戦後すぐのころは、かなり多くてそれがどんどん減少してきているという事実です。ここから言えるのは、「日本人は伝統的に血縁重視であった」というのが、あんまり的を得ていないということです。いわゆる「家制度」のもとでは、「家の存続」が第一の目的なので、そのために「跡取り」として養子をとるということは普通の発想でした(家の存続>血縁)。

 もちろんここで注意しなくてはならないのは、今日紹介した「特別養子縁組」という「親子関係」を形成するための「強い」養子縁組制度が始まったのが1987年で、その数は大きく伸びておらず、また、養子縁組全体としては減っているということです。このデータに絞ると、日本社会では養子縁組は盛んではないというのは確かです。

 上記ページで筆者の野辺さんが指摘しているように、養子が増えないのに対して目立つのは体外受精の数の急激な伸びです。ここからは、不妊治療という「血縁」を有した子どもを得る手段が強く志向されているということが見えてきます。

 上記ページで指摘されている点で重要なのは、まず不妊治療を行なって、それがうまくいかず里親になって、養子を迎えるという流れになっている点です。これによって里親の高齢化という現象が生まれます。(つまり不妊治療に限界ギリギリまでこだわって年齢的に厳しくなってきたら養子を迎えることを決断する)。今日見た大阪家庭養護促進協会の里親の条件として親と子の年齢差が40歳までというのがありましたが、そうなってくると、3歳より上の子どもとの養子縁組は、(里親希望者が望まないという以前に)年齢条件で、既に厳しくなってくるわけです。

  • 養子と自分の子

 何人かの人が書いてくれたのは、養子を自分の子として愛せるのか、ということでした。あるいは自分の子でも大変なんだから養子だったらきっと育てるのは大変なのではないか、ということです。これはどうでしょうか。
 たとえば不妊治療のあとに養子を迎える人にとっては、「自分の(お腹を痛めた)子」を持った経験はないわけですよね。だとすると、少なくともその本人にとっては、「自分の子」と「養子」との間での違いというものはないのではないかと思いますが。ただ、「想像上の自分の子」を育てるという仮想世界と現実を比べてしまうということは起きるかもしれません。でも、それは自分がお腹を痛めた子でも起きうることではないでしょうか?(たとえば生まれた子どもが自分の思うように育ってくれない、など)。
 もちろん、子どもが虐待を受けていたためとか、生まれてから施設という環境で育ったために、育てるのが大変であるということはあるかもしれません。しかし、それと「自分の子でないから」という気持ちの問題とはちとずれているようにも思います。
 あとありうるとすれば、子育てが困難になった時に、「この子は自分がお腹を痛めた子だから」と思えるか否かの違いがあるのではないか、ということですが。こうした「自分のお腹を痛めた」という理由に訴えられることに子育ての大変さを和らげたり、虐待を止めたりする効果があるのかどうかは謎です。圧倒的に多い、血縁の親子関係において、虐待も起こっているし、子育ての質には幅があるわけですから。

 さて、多分、養子の子を育てる人にとって問題になってくるのは、自分の気持ちという点以上に、私たち世間・社会が持っている「血縁関係にない」ということに対する過剰な意味づけではないでしょうか。「血縁関係にないのに育てるなんて」のあとには、「大変」とか「えらい」といった評価が続きます。つまり「特別なこと」をしている人、という眼差しが常につきまとうわけです。
 そうした眼差しの中で子どもを育てていく、あるいは親と関係を作っていく時、そこには、「家族らしさ」や「愛情」といったものの存在を説明するもろもろの実践や工夫が当事者たちには強く要請されているように思います(血縁というレトリックは禁じ手というか使えない)。里親家族のやりとりを見ているとそんな風に感じます。(次回、その映像をみるかもしれない)。
 しかし、翻って、養子縁組家族・里親家族において、顕著に見られる「愛情」「家族らしさ」の演出というのは、いわゆる「標準家族」ではやっていないことでしょうか?血縁でつながった「標準家族」では「自然に」愛情が湧いてくるのでしょうか。私は決してそんなことはないと思います。「標準家族」においても、「愛がある」から人々が子育てをしているわけではなく、「こういう風に子育てすること」が「愛を示すことだ」という想定の中で、「あるべき子育て」「あるべき家族」をやっているのだと思います。
 そのように考えていくと、「標準家族」だろうが養子縁組家族だろうが、「家族であろうとする」ための実践を日々様々行なっているという点では変わりはないのだと思います。養子縁組や里親家族を見ていくことが家族を考え直していくための事例となるというのはそうした意味でもあります。

  • 里親制度の中にみる家族像

 あと、コメントで、里親制度における家族の基準が、いわゆる普通の家族以上に「標準家族」的な基準(育児を専従的にする人がいる、安定した夫婦関係、それなりの所得水準)を課していて、その逆説が興味深かったとありました。これは考えるべきことを示唆するいいコメントだと思います。
 里親家族に厳しい条件を課している理由として、第一に挙げられるというか、おそらくこういう理屈で厳しい条件となっていると思われるのは、「子どものため」ロジックです。つまり、子どもに愛情が得られる環境で育って欲しい、というもので、多くの人が納得する理由でしょう。
 このこと自体は間違っていないと思いますが、この理屈の中には、一つの想定があります。それは、一定の形の家族=子育てにとってより良く機能する家族という想定です。当たり前ですが、形態が標準的でなくても、それなりに子どもが育つ家族はあります。しかし、「制度」として信頼を保証しなくてはならない場合は、何らかの確証的な基準を設けなくてはなりません。その際に持ち出されるというか、それしかないのが、家族の形ということになるのだと思います。その想定は大筋は間違っていない(それなりの所得があって、住居がないと子どもにとって環境がよくないのは事実)のですが、見方によってはより「標準家族」的イメージを強化するものともなっているという皮肉なものとも見える、ということになるのでしょう。