要約【認知症】

1.本書の目的(はじめに・序章より)

 本書は,とりわけ認知症とされる者への介護経験を中心に,家族介護者の経験の記述・分析を行いながら,その経験と近年の新しい認知症ケアとの関係や,認知症にまつわる現象を分析する社会学のあり方を考えていくことを目的としている。

1)本書を書くことになった動機(後付的なものではあるが)

認知症(痴呆,呆け)ケアの世界が注目を集め,高齢者介護の「転換期」とも言えるような2000年から2005年の時期にかけて,私は,長期にわたって家族の介護を行っている/行なってきた人たち(家族介護者)の経験に耳を傾けていた。家族介護者の経験を次から次へと聞いていくことは,呆けゆく者という他者に出会う介護者のリアリティに近づいていくような感覚を得ると同時に,困惑を深めていく経験でもあった。その困惑とは何だったのであろうか?
 まず,それぞれの介護者の経験と困難はバラバラでありそれぞれの切実さがあった。何人かの話を聴いているうちに,「それぞれがバラバラな経験である」と言ってしまうことこそが,「家族介護の経験」というテーマを語る上で,最も適切なのではないかと思うようになっていった。しかし,学的な営みは,そのバラバラの中に何らかの一般性や普遍性,あるいは社会的なテーマとの関連を見だしていかなくてはならない。社会学研究者として聴く私は,呆けゆく者と生きていく過程での個々の経験を理解・分析しようと試みながら,その先に何を提示できるのかということについて思い悩むようになった。
 そんな中で,認知症ケアの世界の方を向いてみると,社会学を学んできた者にとって「なじみ深い」考え方がにわかに注目を集めてきているようだった。
 2000年度の介護保険法施行以降,高齢者介護のモデルとして認知症ケアの充実が目標に置かれたことに加え,認知症の本人による語りがマスメディアなどに登場し,本人を重視した様々な新しいケア実践が広く紹介されるようになってきていた。そうした流れの中で盛んに強調されていたのは,認知症と呼ばれている問題が,環境や人間関係によって作られ,深くさせられているといった大変に真面目な「社会学的」なとらえ方である。そうしたとらえ方から,認知症の本人の思いに注目することの重要性が主張されてきていた。さらに,そこで示されているようなとらえ方や主張について,多くの介護者は,何となく分かっているようでもあった。だが,彼女/彼らの経験を聞いていると,分かってはいながら,それだけではすまない現実があるようでもあった。そのように「社会学的」なとらえ方が強調される一方で,すでに当たり前のように存在し,しかも救いになっているわけでもないとするならば,社会学はあらためて何を言っていくべきなのだろうか。喧伝される新しいとらえ方や,そこから生まれている実践が,非常になじみ深く納得できるがゆえに,さらなる困惑を私に与えていくようなものだったのである。

2)最終的な二つの課題
 本書の中核部となる、フィールドワークに基づく実証的な検討(3章から7章)を踏まえた上で以下の二つを考察課題としている。

【課題1】一つは,呆けゆく者とのコミュニケーションにおける新たな考え方の出現と強調という社会的潮流の中で,呆けゆく者を「人間」としてとらえてつきあっていくということは、どういった意味内容のものとなるのか。ならびに,それを可能にする条件・社会関係はいかなるものかという点についての考察である。
 新しい認知症ケアのモデルにおいては,呆けゆく者の「自己」が強調され,そうした「自己」の存在を前提としたはたらきかけ方(ケア)が,呆けゆく者を「人間」としてとらえてつきあっていくという理念の達成につながると考えられている。そうしたモデルの論理は、実際にコミュニケーション過程の考察を踏まえた上で、十分に支持できるものか。また,そうしたモデルの強調は,実際のコミュニケーション過程にいかなる帰結をもたらしうるのか。そして,そうしたモデルが強調される「現在」を踏まえた上で,相手を「人間」としてとらえていくとは何を意味し,何を考えていけばよいのか。いわば,呆けゆく者の主体的「自己」を強調することがコミュニケーション過程のあり方へと何をもたらすのかを考察していくといった作業(の端緒)である。

【課題2】二つ目は,以上の一つ目の課題に取り組み,解を提示していく社会学の語り口を考えていくことである。呆けゆく者の「自己」の強調とケアに関する新たなモデルは,たとえば,医療に基づく理解に対して代案を打ち出すといった構図をとった,十分に「社会学的」と言える志向を持っている。また,典型的な社会学的視点をとり,その発想を展開していくならば,現在の潮流に棹差すような議論にたどり着く。では,そうした類似の議論が既に存在している中で,「社会学の立場」に立つ本書が,認知症をめぐる言説に対して何をか新しい議論をつけ加えることができるのか。こうした問題に対して,コミュニケーション過程の分析を実際に試みた上で,解答の方向性を示す。

2.各章の内容
1)呆け・認知症への社会的/社会学的まなざしの現在
 1章と2章とでは,現在において、呆けゆく者とのコミュニケーションを考察していく上での背景,すなわち,呆けゆく者をとらえていく,社会的および学的なまなざしの変容と現状について検討した。
 1章では呆けや認知症に関する政策言説の変遷を材にとり,相互作用の主体という「自己」を持つ認知症高齢者像の設定と,呆けや認知症とされる人に対する周囲のかかわり方の重要性という認識が出現し,強調されてきていることを確認した。
 2章で見たのは,認知症や呆けに関する社会学的な考察の展開であった。認知症に関する社会学的な議論の典型である「認知症の医療化」論は,認知症症状と言われる相手の様態が,脳の器質的な原因から生じていると規定されていく傾向を,「生物−医療化」ととらえ,「生物−医療化」された知識を前提とした疾患モデルに基づく理解・対応が呆けゆく者に対して否定的な効果(=統制やアイデンティティの決めつけ)をもたらすことを問題にしてきた。そして,そうした議論の延長上に,周囲のかかわり方によって呆けや認知症の症状と言われているものが変容することや,呆けゆく本人の自己の存在を示すような研究を展開してきた。
 以上のような潮流は,呆けゆく者の意思・意図の存在へ注目し,そうした意思・意図を持つ「人間」として配慮していこうとする傾向が強まってきていることを示しているが,同時に,そうした傾向が生み出すいくつかの考察課題を見出すことができた。1章では,呆けゆく者を相互作用の主体として設定することは,呆けや認知症と定義づけられる者に対する「はたらきかけ」(ケア)の根拠となると同時に/ゆえに,呆けゆく者への「はたらきかけ」を行う周囲の有責性を呼び起こす論理にもなっている点を指摘した。そのことは,呆けゆく者自身と,彼/彼女とコミュニケーションを行う周囲の者とが置かれている状況を踏まえて,その新しい論理がもたらす帰結を検討していくことの必要性を示唆していた。
 2章から示唆されたのは,疾患モデルに対して関係モデルを提示するという素朴な図式を背景に持つ,これまでの社会的要因に配慮した認知症論の不十分さであった。本書の視座から改めて位置づけ直すと,「認知症の医療化」論に代表される,これまでの社会学的な議論の本来の要点は,認知症の症状,ならびに呆けゆく者が,何らかの理解モデル(疾患モデル/関係モデル)に基づく周囲からのはたらきかけによって生まれているととらえる認知症現象の認識論としての〈関係モデル〉である。
 そうした〈関係モデル〉の立場に立ち,自らの言説が再帰的にもたらす効果についての検討をも含む社会学的研究として行うべきは,以下のような手順をとるものと規定できた。まずは,家族介護者の間で重要性を強調されている疾患モデルが,コミュニケーション場面においていかなる効果を持つのか,という点の問い直しを起点として,彼女/彼らが,呆けゆく者をいかなる存在と定義してコミュニケーションを続けていくのかを精緻に分析すること。その上で,関係モデルに基づく理解の方向性を強調することがもたらす帰結について考察していくことである。

2)呆けゆく者とのコミュニケーション過程の考察
3章以降は,フィールドワークから得たデータに基づいて、呆けゆく者と/をめぐるコミュニケーション過程を考察していった。3章では,呆けゆく者との出会いの局面に注目し,家族介護者が,相手をどのように理解していくのかを,特に,認知症に関する知識(疾患モデル)の獲得と参照という観点から考察した。その考察から見えてきたのは,出会いの局面における以下のような過程であった。疾患モデルという知識の獲得とその知識に基づく相手の「問題行動」の理解は,呆けゆく者との出会いの局面でのコミュニケーションにおける相互免責のための技術として重要になってくる。だが,実際の生活を共にしたコミュニケーション過程においては,呆けゆく者を「正常な人間」として解釈できるような局面と出会わざるを得ないため,そのモデルに基づく理解を貫徹することは困難となるということであった。
 次いで4章と5章とでは,呆けゆく者とのコミュニケーションが,介護者という位置において継続されていくという点に注目し,呆けゆく者が,その介護過程の中でいかなる存在として定義づけられていくことになるのかを考察した。その際,家族介護経験を目標とそれに向けての行為の連鎖という観点から理解していく方法について検討し,呆けや認知症とされている人への介護以外の事例も含んだ,いくつかの家族介護の過程を比較考察した。そして,その考察から,呆けゆく者に対する介護過程の特徴について指摘した。その特徴の一つは,「正常な人間」という目的を置き,それに対する手段の連鎖を設定するというような形でマネジメント役割を限定しながらコミュニケーションを続けていくことが,徐々に困難となっていくことであった。
 また,それ以上に重要な2点目の特徴は,介護者側が,はたらきかけの目的とすることが困難であるにもかかわらず,「正常な人間」という想定を相手に対して持ち続けざるを得ず,また「正常な人間」としての面を見出すことが,呆けゆく者とのコミュニケーション過程における肯定的経験となっているという点であった。そのために,「正常な人間」像と,徐々にリアリティを増していく「衰える相手」という二つの像を同時に付与していくような,両義的な他者定義を――時に呆けゆく者に対する暴力に至るような免責の失敗経験をはらみながら――続けていくのであった。

3)呆けゆく者とのコミュニケーションを支える他者(支援)の考察
 以上のような,介護者と呆けゆく者との二者関係に注目した他者定義の過程の特徴についての検討を踏まえて,6章と7章とでは,二者関係の外部の他者(第三者)とのコミュニケーションが持つ意味について検討した。具体的には,それらがいかなる意味で,呆けゆく者と生きていく中において特徴的な他者定義のあり方/困難に対する支援となりうるのかという観点から考察した。
 6章では,「話し合い」活動に注目して,呆けゆく者を見つめる介護者同士の会の持つ意味を考察した。その話し合い活動が介護者に対してもたらす効果は,3章から5章にかけて指摘した目標設定の困難さに対する支援と,呆けゆく者とのコミュニケーションの中で直面せざるを得ない「正常な人間」像を所与として認めた上での「問題行動」の理解や免責であった。
 それに対して,7章では,呆けゆく者が介護者との関係以外の社会関係に入ることの重要性を指摘した。呆けゆく者とのコミュニケーションの中では,介護者が,相手の「人間性」の存在を強く目的としてしまうがゆえに,相手の意思・意図のリアリティが失われていくという逆説的な過程を見出すことができる。そうした状況からの脱却においては,呆けゆく者が,介護者自身とは違う他者との関係に入り,それを介護者自身が見ること,あるいは第三者から新たな社会関係の中にいる呆けゆく者の振る舞いや様子を指摘されることが重要であることが見て取られた。それは,呆けゆく者が意思・意図を有している「人間」であるというリアリティを保持する上で重要なのである。

3.本書の主張(終章の要約)
1)「人間」として付き合っていくということの意味内容・条件(課題1)
 本書の立場――認知症社会学――として重要なのは,関係モデルの正しさを根拠づけていく議論ではなく,認知症をめぐる現在の潮流を踏まえた上で,理解モデルの力点の変化が,呆けゆく者とのコミュニケーション過程に対してもたらす影響について考察することである(2章参照)。つまり,関係モデルが強調されていく傾向の下で,実際の呆けゆく者と出会い生きていく中で,どういった理解が生み出されうるのか,そしてその理解のあり方が,「人間」として配慮していくという関係モデルが強調する目標とつながり得るのかどうかなどを考えていくことである。
 関係モデルの強調という近年の傾向は何をもたらし得るか,また,関係モデルの目標である「人間」としてとらえつきあっていくことの達成に近づいていくためにはいかなる装置や条件について考察していくことが必要なのだろうか。

①理解へのうながしがもたらすこと(終章2節)
・介護者は既に「正常な人間」としての相手に出会っている(出会わざるを得ない)(3章)
・「自己」を持つ主体という想定の強調は,「問題行動」を含む相手の行動全体を,相手の意思・意図を前提に解釈していくことを,あらためてうながしていく
・呆けゆく者の「問題行動」を含む行動全体の背景に,意思・意図を積極的に見出していこうとする志向が,呆けゆく者を「人間」として配慮するという目的につながりうるか
・考えるべきは相手を以前から知る家族であるゆえの困難( → 疾患モデルに基づく理解が要請される理由)
・二者間に閉じた形で考えていくだけでは不十分。以前から知る相手の意思・意図とつきあっていくことを支えていく,あるいは「人間性」を担保するような他者の存在が重要( → 6章、7章で見た二者関係外部の関係)

②関係の強調がもたらすこと(終章3節)
・「関係」の持つ力の発見は,呆けゆく者の「問題行動」を含む状態をはたらきかけによって変更させることが可能だということを強く意識させる → 相手の「正常な人間」像や「人間性」を保持しようとする,介護者の志向性と適合的
・「関係」の力の発見は,医学的な枠組みの中では治癒が不可能な認知症介護において,手段と目標を設定していく可能性を開くという意義を有している
・だが,介護者にとって肯定的なものとなるのかどうかは,「関係」の内実(呆けゆく者の状態に対する責任を有する者の所在や配置)との関係に注意して考えていく必要

2)認知症社会学の課題(課題2)
呆け・認知症を対象とした社会学である本書の試みは,相手の「人間性」を見出すことのできる「関係」の内実を厳密に同定し,積極的に強調していく方向――いわば,「ネオ関係モデル」――に向かうのだろうか。そうした試みが可能なのだろうか。

・ネオ関係モデルの追求 ×
7章で見たような「人間性」の発見は,おそらく「関係による変容」として言われることの,原型的な経験ではないだろうか。近年の関係モデル的な理念の強調は,まずは,宅老所やグループホームなどの集団ケア・共同生活の場における,呆けゆく者の変容を実在根拠として用いることで主張されてきた。それらの,いわば先駆的なケア実践の場において報告される呆けゆく者の変容は,目的‐手段を設定した意図的な行為による結果と言うよりも,相手への必死のはたらきかけの中で発見した驚き,因果が確定しない偶然的な出来事である。また,そうした出来事の起きる場自体が,関係による変容を目的に形成されてきたものでなく,個別の介護事情に合わせて対応を考えていく試行錯誤の中から生まれてきたものである。
 このような先駆的な実践の中で呆けゆく者の「自己」が見だされ,その新たな「自己」と比べた時,これまで常識とされてきた関係が,その「自己」を無視し「問題行動」と名指される症状を形成してきたということが発見される。すなわち,それまでの業務的な関係,自己を喪失した者としての扱いという一律な関係のあり方を,新たなケア実践を鏡に振り返ってみると,形成されていた関係のあり方が,呆けゆく者の状態を悪くしていたということが反省的に見出されていく。そして,その過去に形成した関係のあり方が,疾患モデルのような姿として抽象されていく。注意すべきは,そうした先駆的実践など実例の提示が直接に示しているのは,様々な関係に応じて,異なった呆けゆく者の「自己」があり得るという「振れ幅」であって,関係によって呆けゆく者が変容する/よくなるという因果の想定ではないという点である。
 したがって,認知症ケア領域で見出されて来た「人間性」「自己」の発見を可能にする〈関係〉の内容は,偶然性を可能にする条件――たとえば複数の他者――が必要だという以上に厳密に指定することが可能なものではないだろう。

・脱関係モデルの追求 △
そこで見だされるのは,行動・状態の原因・責任帰属が問題とならないようなコミュニケーションである。これらの議論は,いわば,呆けゆく者の行動などを,通常の意味で理解すること(whyの問い)をあきらめ,意思・意図を備えた「自己」の引き起こす行為や状態に対する責任帰属が問題となってこないような〈関係〉の可能性を見出していこうというものである。いわば,関係による変容という問題を無効化していく〈関係〉=脱関係を探るものである。
 そうした〈関係〉を発見・提示し概念化していくこと,それも「認知症社会学」の一つの重要課題である。しかし,一方で,そうした実践の存在が積み重ねられ,一つの集合的表象として,脱関係の重要性の主張を含む関係の強調が抽象されてモデルとなっていく。同時に,介護者と呆けゆく者という二者の非対称的なコミュニケーションは,理念の展開とは独立に,家族や施設などの場で存在している。したがって,関係モデルが,こうした旧来の場・空間において,介護者による相手へのはたらきかけや,介護者と呆けゆく者との間のコミュニケーションに結びついていくという事態についても同様に考えていく必要があるだろう。いわば,小澤勲の言う「世間体などにはとらわれず,失敗してもとがめられない場」という「豊かな「虚構の世界」」(小澤 2005: 193)が,先駆的な認知症ケア実践として生まれていく中で,その「虚構の世界」の存在を知った「通常の世界」において起こる問題を拾い上げていくことである。

・関係モデルという認識と非対称的なコミュニケーションの結びつきの考察  ○?
 本書の延長上に設定できる課題は,まずは,これまで見てきたような,呆けゆく者が現れる空間において生まれる非対称的なコミュニケーションのあり方と,複数の意味を含みこんだ関係モデルとが結びついていく様を実際に見て行くことである。本書で見たような家族介護に代表される一対一の介護状況は,「古典的」かもしれないが残り続けるであろう。そこに,関係モデルの理念が突出して強調されていく。そうした状況下で,呆けゆく者に対する周囲への責任帰属のあり方はどう変わっていくのだろうか。関係における非対称性は強まっていくのだろうか,弱まっていくのだろうか。


4.その先の展開と課題
1)議論内在的な課題
認知症の人の「自己」の発見のされ方・伝えられ方のバリエーションの考察 
→ 家族会におけるストーリーの語られ方に何をもたらすか(井口2007a)
認知症の人本人への聞きとりが家族に何をもたらすか(井口2007b)
・医療技術水準(治療薬などの研究)の上昇は「治らない」という現状にどういった意味づけをもたらしていくか? 
→ 若年認知症当事者、家族の集う会への調査(継続中)

2)メタ的課題
・敵とした(戯画化された)「社会学的発想」の弱さ 
→ 自らの社会学としての立場をどう問いうるか?
・議論の前提としている「人間性」の曖昧さ・平板さ
※上記2点は、天田(2007)による指摘を参照

3)補足(社会政策・歴史社会学的考察/本書1、2章に関わる部分)
・寝たきり言説・認知症言説の誕生・展開 
→ 「寝たきり」に関しては、立命館大学の生存学グループの取り組み
(仲口他2007、田島他2007)
・予防・リハビリの論理(防ぐこと、治すこと)とケア(衰えた状態の承認)との同居可能性/分離の契機・条件の考察
→ ぴんぴんころりと健康重視との間
(長野県の地域医療の取り組みに関する歴史社会学的研究)

参考文献・URL
天田城介2007「老い・7(世界の感受の只中で・07)」『看護学雑誌』71(11)
http://www.josukeamada.com/bk/bs07-7.htm
井口高志2007a「介護者家族会における〈つながり〉」浮ヶ谷幸代・井口高志編『病いと〈つながり〉の場の民族誌明石書店
――――2007b「本人の『思い』の発見がもたらすもの――認知症の人の『思い』を聞き取る実践の考察を中心に」三井さよ・鈴木智之編『ケアとサポートの社会学法政大学出版局: 73-107.
仲口 路子・有吉 玲子・堀田 義太郎20070916-17「1990年代の「寝たきり老人」をめぐる諸制度と言説」障害学会第4回大会 於:立命館大学
http://www.arsvi.com/2000/0709ta2.htm
田島 明子・坂下 正幸・伊藤 実知子・野崎 泰伸20070916-17「1970年代のリハビリテーション雑誌のなかの「寝たきり老人」言説」障害学会第4回大会 於:立命館大学
http://www.arsvi.com/2000/0709nm1.htm