メモ【自立生活支援】

 家族の視点、本人の「思い」の発見という順番(①)で行くか。それとも、本人の「思い」に配慮したケア(認知症ケアの最前線)の紹介をした上で、認知症症状の発現モデルを示し、「環境」としての家族に注目してみようというような順番(②)で行くか。
 自分の論文とか著作の方向としては②なのだが、啓蒙的(新しい認知症ケアの正当な歴史)的には①か。
 作業療法専攻の3年生がどれくらい認知症のことを知っているのか、ということにもよるか。
 
 上の流れの中に若年認知症の話も入れたいが、どういう文脈の中に入れるか。

 ちなみに先週の某看護学校(准看の人が看護師資格を取るために2年間通う)での講義では、以下のような構成をとった。

<第一講> 認知症の見方・家族の経験
 ・認知症の医学的定義(脳の疾患+症状に影響を与える環境・ケア)と、その視点を取った時に出てくる問い
 ・認知症社会学的定義(呆けゆくというプロセス)と、その視点を取った時に出てくる問い
 ・呆けゆくプロセスを目の当たりにする家族の経験(映像)

<第二講> 本人の「思い」の出現の意味
 ・認知症の人(呆けた人)をどういう人だと捉えているか?(恍惚の人などを事例に)
 ・認知症の人はどういう経験をしているのか?(小山のおうちの集団精神療法などを事例に)
 ・なぜ、認知症の人の「思い」は注目されてこなかったのか?(NHKの番組での、家族として介護を経験したみのもんたの発言や、パッシング・ケアという方法で認知症を避けようとする私たちの振る舞いについて)
 ・パッシング・ケアか物忘れを開示するかの二項対立を超えて(認知症の人を取り巻く社会への注目)

<補講>
 ・小規模多機能施設を事例に、認知症の人の「社会」が拡がるとは何を意味しているのかについて話す。

 うーん、こうしてみると、とっちらかっているのと、少々、子供だまし的なところがあるかも、と思ってしまう。これまで介護経験があったり、看護師としての仕事の中で認知症の人と関わってきたという人が結構いて、確かに小山のおうちや、小規模多機能ケアの映像は「理想的な例」としてインパクトがあったようだ。しかし、本当は、そうした新しい見方を超えて、さらに考えていくというのが、私の本意なのだが。明日はそこまで行けるか。しかし、風邪気味で、準備がどうなるのか…。

【追記】とりあえず、「新しい認知症ケア」の説明を先に持ってきて、その後に家族の話をすることにした。専門家向けバージョンということで。若年認知症の話は最後にちょこっとだけすることにして、次週の当事者活動の意義、ピアで集まることの意義といった話につなげていくことに。