敵を知る【自立生活支援】

 高齢者、および認知症作業療法とは一体なんなのかよく知らないので、下記のウェッブサイトを見たりと。

http://www.geocities.jp/rehabilitation_ot/index.html

 『作業療法ジャーナル』に特集号があったので、コピーしてくる。

  • 山下和徳2006「【実践報告】認知症の前駆状態の概要と認知症予防における作業療法の取り組み」『OTジャーナル』40(2):123-126.
  • 香山明美2006「【実践報告】認知症の家族支援――認知症の方を抱える家族の負担軽減のために作業療法士ができることは何か?」『OTジャーナル』40(2): 127-132.
  • 工藤啓子2006「看取りの経験談」『OTジャーナル』40(2): 133-135.

 しかし、実践報告ばかりで体系的なところはよく分からない。まあ、今回の講義では、療法の中身というよりは、療法の位置づく文脈について講ずるというような感じになるから、まあよいか。精神障害者のリハでもそうだと思うが、生活の中で療法というものが入ってくると、生活<療法ってな感じになってくるという問題がある。しかも、精神病院の歴史の中では、生活療法とか生活臨床とかいうものもあって、いわゆる病院精神医学とか、反精神医学の中で、その是非をめぐって大論争が行われてきた経緯がある。
 認知症においても、おそらく、医療的なものから脱して行こうとする動きは、医療の枠の中では「治らない」とされる位置づけに対して、「そうではない(回復の位相を変える)」ことを目指す一方で、生活が「回復に向けた療法」の合理性に回収されてしまうことからも逃れようとする運動なのだと思う。そういう動きをどう記述・評価するかという事はとても難しいが、しかし、今回の講義の範囲では、療法の合理性とか、療法の外側にあるものに目をやってもらうことを目指そう。具体的には、認知症の人の「環境」である家族が、そんなに操作可能なものではないよという話。あと、若年認知症の事例で見たとき、療法という枠の中での「作業」は、とても無力なものである可能性があるよという話。
 
 ところで、この前のリハビリテーションの授業のときにも感じたが、リハビリテーションという言葉はとても肥大化しているように思える。障害のICFモデルとか、個人因子、環境因子とか組み込み、個人への働きかけから、環境のバリア解消まで何もかもが「全人的復権」であるリハビリテーションの枠に取り込まれる。そんなにかかえちゃっていいのという感じだ。
 しかし、そんな風に社会的因子が変数に加えられても、それでもやっぱり、責任帰属としては、個人の身体に焦点が当たって行く(ように思える)、といったところに、論じるべき何かがあるのかもしれん。以下の著作はその辺に焦点を当てた本だと思う。

障害学―理論形成と射程

障害学―理論形成と射程

障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて

障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて