分かること/診断【医療化】

「わからない」というのは「わかると困る」ということなのだ。私のことばで説明すればこういうことである。ある対象を前にしてその対象の言葉なり思想なりが私の「思考の枠組」から著しく逸脱して、枠組にくみ込むことがきわめて困難な場合に私の対処の仕方には二通りある。何らかの口実、たとえば相手をキチガイだとか、異常だとか、病気だからという理由によって「わからない」ことを対象の責任とし、対象と自分との関係を断つことによって自分を守るか、それとも自らの「思考の枠組」を根底的に解体しながら、そこから生まれ出ずる対象との新たな「関係」に賭けるという不断の苦痛に満ちた作業を開始するかである。「思考の枠組」の解体などというより自らの「感受性」の解体、再生と言った方がよいであろう。あるいは、「ものの見方」と言うより、「ものの見え方」の変化と言うべきかもしれない。いずれにしても、「わかろうとする」ことは実にしんどいことなのである(小澤1974a:243, 小澤1974b:184に再掲 ※天田2006:209に引用)。

むろん、われわれは、「枠組」(あえていうなら「偏見」)なしに対象と接することは不可能である。ただし、「枠組」が相対的なものに過ぎないことを大前提とし、「枠組」が対象を差別し、抑圧する構造性をもっていないか、かかる「枠組」はいかにして形成され、いかにして乗り越えられるべきものなのかが常に考慮されていなければならない(小澤1974a: 238 ※天田2006:210に引用)。

何故なら、診断という行為こそ、一人の生身の人間が他ととりかえようなく表現しているすべてのものを症状という抽象的なラベルに置きかえ、ついで、その人間の存在そのものを抽象的カテゴリーに押し込める作業だからである。かくして、医師は生身の人間の、生身の苦悩とむかいあうかわりに、抽象的な「疾病」に対することで身をかわすことが可能となるのである(小澤1974b: 194-194 ※天田2006:211に引用)。

「定義は、なにも可能にしない。精神科医が診断を実際に下すにあたり、定義はなんの役にもたっていない。診断の内容および診断の下される可能性がコンテクストに応じて様々であるのは、精神障害の定義が「流動的」だからではない。精神医療の分類方法は「不確定的」だという主張がなされるとき、なんらかの「確定性」の規準が前提とされている。しかしながら、精神医療のばあいには、身体にかかわる医療のばあいと違って、不変の規準はありえない。身体にかかわる医療のばあいを尺度としてもちいることは、サッカーにおける動きを判定するのにチェスの規則をもちいるようなものだ。
「精神病」の実際の評価は、しかるべき組織のなかで、その偶然的条件に依存しながら下される。精神病をこのようなコンテクストから切り離して考えるときにのみ、わたしたちは、なにか厳密な規則・定義によって診断の実践を厳格に統制でき、そうして統一性と一致が確保できるはずだといった考えにとらわれてしまうのだ。精神科医による診断とは、なによりも、患者をどの病棟におくるか、患者にどのような治療を施すかという、そのつどの実際的な目的のためにもちいるべき道具立てにほかならない。診断は患者の処置についての大まかな標識としてもちいられる。ときには診断は、精神科医うしの(また精神科医と照会者とのあいだの)コミュニケーションにおいて、なんらかの行為を正当化するためにもちいられることもある。しかしながら、患者の観察可能な諸特徴の要約としてもちいられることは、まずない。患者の特徴については、むしろもっと詳細な記述のほうが、通常は好まれる。たとえば「分裂病」というような、単一の「機能性」の記述子が使われることによっても、患者についていくらかの情報がもたらされるけれども、精神科医たちは、このような情報に限界のあることを、よく承知している。このようなことばは、ふつうもっぱら記録のためだけにもちいられる。ケース会議(症例の検討会)などで話すときには詳細な記述がもちいられるけれども、それにたいして記録に書き込まれる>233>のは、たいてい切り詰められた文言である。精神科医たちは、自分たちの概念が実際の活動のなかでどのような働きをしているかについて、まったく無知であるとか、なにもわかっていない、などということはない。」(Coulter 1979=1998 :232-233)。


参考文献)