付記:BIを論じる意味

 先日の飲み会で、ある後輩は、BI論が流行ることによって、研究者の関心を、貧困について深く思考することからそらしてしまうことにならないかと言っていた。確かに、「まずは一律給付」という形をとることで、貧困線の科学的・規範的な妥当性についての論議が沈滞するという可能性はあるかもしれない。だが、同時に、BI自体が、福祉国家中流階層化という抗い難い現実の中で、左翼が生み出した苦肉の策であるということも考慮しておく必要があるだろう。
 貧困自体に関心を持っておくことの重要性は言うまでもなく、社会学者はまさにそれをやるべきだと思う。しかし同時に、政治が作動する中で、資源を取ってくるための技法や言語の彫鐸も必要だと思う。その一つの(妥協)解がBIではないか。

 しかし、この種の問題は、選別主義と普遍主義のジレンマとして繰り返されてきたことだ。BI主導者の主張の大きな柱が、スティグマの解消であるが、スティグマの解消が、すなわち、貧困に対して選別的に資源を集中するという道が経たれることとバーターになっているのではないかという危惧が出てくるのは当然だろう。

 そういう意味では青い芝を源流とする障害者運動の方向性は興味深い。彼らは、公的保障を受けて何が悪いという方向で運動を展開し、選別的に給付されることに居直り(しかも、そこで、選別する主体をより自己に近い側に設定するという意味で「自由」も確保する)、自立の概念を変化させながら、スティグマを解消していこうとする戦略を採ったと言うことができるのではないか。