ベーシックインカム(BI)

 どんどんやる気が減退している。また本題に入らずに。
 はやりのベーシックインカム論は、自立や生活保護の問題と深く関係している。数年前のゼミで読んだトニー・フィッツパトリックの本が、博論の主査をつとめていただいた先生と後輩の手によって訳された。

自由と保障―ベーシック・インカム論争

自由と保障―ベーシック・インカム論争

 ベーシックインカムとは、年金や公的扶助、児童手当などに代わり、資力調査や家族要件などの条件無しに、市民に対して最低限所得を給付してしまおうという社会保障の方法を指す。完全なBIは、子どもに対しても個人として給付する。額については、保険料などの社会保障費の総計などから色々な論者が計算しているが、一応、理念の一つに労働を要件とすることなく最低限所得を保障するということがあるだろうから、10万円前後にはなるのではないだろうか。育英会奨学金くらいか。
 当時読んだ限りでは、ベーシックインカム論は、スティグマを無くす、とか、控除方式をとることから生じる煩雑さを無くす、といった、どちらかと言えば公的扶助や社会保障体系に付随する負の部分を解消することを売りにしているという印象を受けた。
 付随するといっても、神は細部に宿るということもあるので、(特に前者のスティグマなんかは)無視できないことだと思う。しかし、それにしても、フィッツパトリックの議論は、どんなイデオロギー的立場の人にとってもベーシックインカムは使えるんですよということを強調するあまり、本質的なところをちゃんと論じていないんじゃないか、という印象を受けたのも事実。
 また、細部にこだわっている割に、社会福祉サービスや、規制などとの関係性をあんまり問うていないのはどうかと思った。もちろん、分量の関係上仕方ないんだろうけど。

 ただ、この本は、見取り図として使うのがいいんだと思う。フリードマンの言う「負の所得税」や「参加所得(ボランティアとしての参加を条件に給付)」など、ベーシックインカムを基準として、様々なアイディアの布置をマッピングできる。そして、ベーシックインカムとの距離を考えることは、すなわち、シティズンシップの範囲と条件を考えていくということである。

 話はまったく脱線するが、アイディアや方法のマッピングという意味では、質的研究の方法として、医療(看護)分野で特にもてはやされているグラウンディッド・セオリー法も、マッピングのための基準としてこそ意味があるんだと思う。
 はっきり言って、あの方法を遵守して、「グラウンディッドセオリーで分析しました、えへ」なんてやるのは無意味とは言わないが、あんまり意味がないと思う(日本で流行らせた木下先生も、看護学分野の流行についてはあまり肯定的ではなかった)。いわゆる「質的研究(※ここでは、インタビューなどの非定型的データを扱うという意味で)の中で、自分が採用している/採用すべき分析の仕方が、どの位置にあるのかを、データ分析のために定型化されたシートを埋めていく作業の中で明らかにしていくという使い方がいいんじゃないかと思う。シートが定型化されているので、「埋められる部分」と「埋められない部分」が出てきて、視覚化され、自分のデータの質やそれに合わせて採っている方法を自覚することができる。つまり、研究のための道具みたいな位置づけ。

 相当に、話がそれてしまったが、また戻って、ベーシックインカムと言えば、日本の第一人者が以下の人。関係ないが、中学の時の野球部の先生が、小澤修一(オザシュウ)だったので、この名前を見ると、地獄を思い出す。

 

福祉社会と社会保障改革―ベーシック・インカム構想の新地平

福祉社会と社会保障改革―ベーシック・インカム構想の新地平

 ベーシックインカムは当然ワークシェアと関係があって、そっちの話に行くと、またその前の講義に戻ってしまうわけだが、気を取り直して、次回は、もうちょっとホームレスや貧困、生活保護の話に戻していこうと思う。