モデルと理論と社会学

 かつて、落合仁司・落合恵美子が『現代思想』に、性別役割分業はパレート最適だ、みたいな論文を書いたら、フェミニストから総スカンをくらった。むかーし、私の出ていた、ある先生のゼミでこの論文がとりあげられたときには、中堅から大家の研究者たちにボコボコに叩かれていて、まだ初心だった私は、震え上がった覚えがある。

 要するに、市場のメカニズムの中でのみ、公正や平等を語ることに対して異議が出たということだ。こうした批判は、外部の変数を入れてくる、あるいは相手の乗っかっている土台を崩す、社会学のお得意技なわけだが、昨今は、こうした論法は通じないだろうなあと思う。

 多分、ちゃんとした経済学者だったら、市場とか、ある種の仮定に基づくシステムは、共通の議論を展開するモデルに過ぎないと言うだろう(もっとも、上述の落合夫妻は、その辺を意識して書いたわけではないと思うけど)。モデルであるということは、それが現実と乖離していることは問題にはならない。あくまで反証可能な仮説として提示されているわけだから、反例は、修正のための材料に過ぎないということになる。

 結局、理論というのは保守的なものである。おそらく(私も含めた)大部分の社会学者は、華やかな視点の転換を狙いたがるもので、以上のような「科学」をちゃんとできないのではないか。(かつてある後輩は、社会学には理論は無いと言っていた。)

 そんなこんなで、社会学はやばいなーと思う今日この頃だが、少なくともここまで来たら「社会学者」としては生きていかないといけない。当たり前のことだが、分野によって、社会学者の位置取りとか、要求される期待も異なってくると思う。印象として、少なくとも私が関係している医療・福祉分野では、経済現象なんかに深くかかわる学問よりも、期待(とその反動としての失望)があるように思う。単にやっている人が少ないというだけか。この辺のことは、自分の研究テーマとも絡めてもう少しよく考えなくてはいけない。

 …と、本題から完全に脱線してしまったが、労働にかかわる分野をやるには、労働経済学の話を少しは知っておかないと、太刀打ちできない、ということで。

唯一知っている本。でもちゃんと読んだことは無い。

仕事の経済学

仕事の経済学



…他、何があるんだ。知り合いの労働経済学徒から、聞いたのだが、忘れてしまった…。
仕方ないので、最近読んだ労働・企業関係の新書を。

日本研究の碩学の著。



日本人よりアメリカ人の方が働いているらしい。

働きすぎの時代 (岩波新書 新赤版 (963))

働きすぎの時代 (岩波新書 新赤版 (963))



この人って、労働経済学者になるのか。確か教科書も書いていたと思うが。多作ですね。



 やっぱり、この分野はわからない。課題としては、労働経済学の勉強をして、本業との関連としては、企業福祉(日本型レジームを語る際には欠かせない)を勉強して…と。

 さっさと次に行こう。