家族関係論:家族の「よさ」についての語りは何を示すか?

 誰を宛先とするでもなく、一応、こっちに書いておこうかな。前回の三歳児神話とか母性愛に対するコメントへのリプライ(「やっぱり親はずっと子どもと一緒にいた方がよいと思います」という人もいれば「共働きでもいいんじゃね」という人もいる。しかし、前者の方が多かった感じよ)を聞いて、「家族のことが好き」「家族と仲が良い」とか言う人信じられないぜ、と思う人がいるように思います。そして、本当にうまくいってて親が好きなんてことあんの?都市伝説じゃね、なんて思う人がいるかもしれません。
 実は私もこっち派で、親と良い関係ということが実感としてイメージできないし、家族という関係に関して懐疑的なので(これは家族社会学者という職業柄とも言えますが、自分自身の人生経験からくるものでもあります)、よくわかるのですが、ここでは一歩引いて、「家族」や「親」の良さに関する語りって一体何を示しているのか、ということを考えても良いのかな、と思いました。(そういう意味ではソーシャルリサーチ論に関係する話でもあります。)

 すごく素直に考えると、「親との良好な関係を無邪気に語っている言説=実態として親との関係がうまくいっていることを示している」という風に捉えてしまいがちですが、ここの等式についてはひょっとしたら疑ってみた方がいいのかもしれません。

 たとえば、何となく、「家族」ということに関して、悪く言ってはいけない、とか、あるいは個人的にはそう思ってなくても、他者とそのことについて話をする時には、あるべき「家族」あるいはタテマエとしての「家族」を語らなくてはいけない、と思って、そういう風に語られている(語らざるを得ない)ということかもしれません。

 そう考えると、「家族のことが好き」とか「親とうまくいっている」とか「家族って素晴らしい」という語りは、現実を反映したデータというよりも、世の中の「こうあるべき」という規範を示したデータかもしれません。

 また、こうした家族の「よさ」を主張する語りを友達や知人とのコミュニケーションの中で提示することで、そのコミュニケーションをトラブルなく上手くやり過ごせているということかもしれません。

 そんな風に捉えていくと、「家族についての語り」は、それを「事実を示す固いデータ」として捉えるのではなくて、人々のやりとりの中で、それがどんな風に機能しているのか、というような見方で見た方が良いデータなのかもしれません。

 以上のような考え方は、社会学の言葉で言うと、エスノメソドロジーとか、構築主義とか、相互行為論とかそういった方法に基づく研究に近いとも言うことができます(ただし、ここでの言葉遣いはかなり大雑把なので、専門の人には怒られてしまうかもしれませんが)。関心のある人は、そういった本を読んでみるとよいかもしれません。

 また、友人との間の会話の中で話されたことが、事実なのかどうなのかわからない、また、会話の中である発言をすることで、何を成し遂げているのか?というような発想については、武富健治の『鈴木先生』の何巻だったか忘れたけど、生徒会長候補の南條が、神田マリのことを好きなのに、友人との間では、茶化すようにしか語っていないというエピソードを読むとわかりやすいと思います。(神田は南條のそうした振る舞いに対して怒りを燃やします。しかし、鈴木先生はそこで起こっていることの意味をよく考えよと神田に諭す…といった感じの場面。実際に読んでみてください。)

 しかし、私は、なるべく自分の思想を押し殺して、授業をしているのですが、そういった微妙な負のオーラみたいなものが(笑)、どこかで感染しているのでしょうかね。