メモ:2003年の『社会学評論』53巻4号【調査倫理】

 「特集・社会調査ーーその困難をこえて」は、日本社会学会における社会調査をテーマにした二つのシンポジウムを元にシンポジストが寄稿している。
 一つ目のシンポが、大谷信介、吉川徹、松田素二佐藤健二で、こちらはそれぞれが自分の技芸の中で、各々の問題意識を展開していて、それぞれの論文がおもしろい(たとえば、吉川は、モデルから演繹される仮説を検証するという作業を中核におく数理ー計量社会学に対して、社会の分析における計量モノグラフの重要性を説いている)。
 しかしシンポとしてスリリングなのは、後半の方だろう。玉野和志、山口一男、宮内泰介、山田富秋、内藤和美がシンポジスト(寄稿者)で、立場の違い(社会調査をやってきた環境の違い・イデオロギーの違い?)がそのまま対立となって現れている。
 役割を述べるならば、山口が正当な社会科学研究の立場からのまっとうな批判。
 質的な研究方法を、それも実証主義から距離を置いた形でとっている、山田、内藤が日本のガラパゴス社会学のなかで生まれた特有の困難を示す役割(山口の視点から見たら、本当に社会科学者なの?とあきれられる敵)。
 玉野が、黒船たる山口の言うことを理解しつつ、日本社会における「社会調査の困難」が、なぜ、このシンポにおける山口氏以外の人たちのような語り口になってしまうのかを、専門知としての信頼を確立し得ていない日本の社会学の展開として説明し、宮内・玉野的な「市民調査」として社会学の知を社会に還元していくあり方が現状では目指すべき方向性であることを主張している。いわば調停者役割とも言えるし、山田、内藤、および司会の桜井に対して、山口からの内藤への批判をだしにしつつ、より強烈な批判をしているとも言える。
 この対立は量的研究対質的研究という理解の仕方をすると、とらえ損なうだろう。山口の立場は似田貝-中野間の「共同行為」論争における中野卓の位置(「共同行為」なんてロマンチシズムで、「異質な存在」として調査者はあるしかない)ともつながるように思われる(同特集の松田論文が似田貝-中野論争をとりあげている)。重要な点は、(ある環境条件によって枠づけられ、制約された)それぞれの調査フィールドのなかで山口の問題提起を受け止めていくことだろう。
 また、山口の議論でおもしろい(というかアメリカ的文脈では当たり前なのだろうけども)のは、調査倫理規定のようなものの制度化が社会科学のある種の正当性を担保しているとともに、データの質の確保にも貢献している(と氏がとらえている)点。(山口の論文ではなく他のところで聞いた話として)事前に倫理審査を行うIRBに対しては、社会科学者側からバックラッシュもあるというが、たぶん、そこにおいても、社会科学のサイエンスとしての位置を前提とした上で今現在の規制のあり方を問題としているということなのだろう。
 こうした黒船の「正論」をどう位置づけるか。日本の調査においては、ある種の「ラポール」を築いた上でないとできないことが多いから、非現実的であると考えるか、それとも、こうした方向性に行っていないことを恥として考えるべきか。

松田素二2003「フィールド調査法の窮状を超えて」
玉野和志2003「サーベイ調査の困難と社会学の課題」
山口一男2003「米国より見た社会調査の困難」
宮内泰介2003「市民調査という可能性」
山田富秋2003「相互行為過程としての社会調査」
内藤和美2003「「女性に対する暴力」と調査研究」