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精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

 タイトルに比して奥行きのある本。中井久夫的な味わい(実際、著者は中井の薫陶を受けている)。大平健や春日武彦ほどは売れないと思うけども、もう少しアカデミックかつ日常の精神科臨床について書いてある本を読みたい人は良いような気がする。
 面白かったトピックを列挙すると、「精神科臨床とEBM」(12頁)、「「物語」の取り扱い」(49頁)、「「物語」の逸脱」(53頁)、「〈ラング的分類〉と〈パロール的分類〉」(59頁)、「患者の〈ありのまま〉とは」(70頁)、「〈甘え〉の精神医学科と医学的パターナリズム」(107頁)、「看護婦の内なる葛藤」(111頁)。

 

臨床の初心者はなるべく、患者の〈構造〉を簡単に言語で表現する習慣をもたないようにするのが理想的である。強迫的に診断や症状の記載を行なっていると、ありのままの〈構造〉を感じることなくわかった気になり、大切なことが抜け落ちてしまうことになるからである。初めて〈生体との会話〉をするに際し、言語は認知の範囲を決めてしまうという点で、じゃまになることすらある(17頁)。

 

また、近年DSMなどの診断基準を、絶対的で揺るぎないものであるかのように扱う風潮がある。たしかにDSMはなかなか便利な基準である。しかしDSMについてのいちばん大きな問題は、「主体抹消」が確実に行なわれておらず、たださまざまな〈パロール的分類〉を折衷的に合わせたものであるにすぎないのに、それがまるで〈ラング的分類〉のように取り扱われることである。すなわちDSMでは、さまざまな「主体」が交錯していながら、そもそも「主体」が存在しないかのごとき扱いが行なわれている。これは一般の言語とはまるで異なり、人工的でいびつなものであり、共通言語という幻想をかぶせているにすぎない(67頁)。

 

……〈甘え〉とは他者が規定するもので、本人が自覚するものではない。〈甘え〉の客観的指標があるわけでもない。精神科医が患者の言動に同調できず、患者に対して陰性感情をもつにいたった時、患者の中に〈甘え〉があるとされるのである。
 疾患の有無が精神の専門家としての了解に裏打ちされているのに対し、〈甘え〉の有無は一般常識人としての感情的同調に裏打ちされているといえる。精神科医にとって、疾患は治されるべきものであるのに対し、〈甘え〉はしつけられるべきものであり、元来疾患とは無関係である。しかし、精神科医が〈甘え〉という言葉を発したとたんに、この言葉は疾患という言葉同様〈精神医学科〉される。言葉の〈精神医学科〉とは、医師が患者の行動を精神医学的に説明する際に使用できるよう、言葉を加工することである。それにより、疾患と〈甘え〉は同列に配して比較できるようになってしまう(108頁)

追記:研究室の本棚に前買ったものがあった。線まで引いてあった…。まったく記憶になかった。


医学の歴史 (中公新書 (39))

医学の歴史 (中公新書 (39))

“標準”の哲学―スタンダード・テクノロジーの三〇〇年 (講談社選書メチエ (235))

“標準”の哲学―スタンダード・テクノロジーの三〇〇年 (講談社選書メチエ (235))

 この人の授業、そういえば駒場で受けていたよ。まだ読んでないけど、『臨床文化の社会学』の臨床検査に関する論文と合わせて読むと良いかもな、と直感的に思う。