メモ【障害】【リハビリテーション】【認知症】

リハビリテーションにおける社会・環境因子

 このように、機器の開発状況や、それを利用するための財政的条件のみを「環境因子」としてとらえる見方は、「環境因子」や「社会的障壁」をきわめて狭くとらえる見方である。障害学の視点から発語困難の環境因子を考えた場合、まず問題とすべきは「困難な発語」に対する社会一般の「許容度」である。つまり、発語困難に対して理解のある社会であれば、スピーチエイドの技術水準が低かったとしてもコミュニケーションは可能になるし、理解のない社会であれば、完璧な機器が開発されたとしても「機械の声は他のお客さんの迷惑になるのでやめてください」と店員から言われるのがオチである。しかし障害学は、「聞き取りにくい発音」を聞く努力を合理的な範囲で社会に求めるし、それが合理的な範囲にある限り「機械の声を使用するな」とは言えないという法律を制定するための論理を構築しようとしているのである。…(中略)…。
 これに対して、茂木に限らず、リハビリテーション研究者の間には、「環境」や「社会」といった概念を、障害者個人を取り巻くごく身近なミクロ状況に限定して解釈し、個人が使用する道具や、個人と接するごく狭い範囲の人間関係など、個人以外への働きかけをすべて「環境因子」あるいは「社会」への働きかけとして解釈する傾向がある。これをもって「社会モデルに配慮している」と主張するならば、それは「社会モデルの矮小化」と言わざるをえない。なぜならば、そうした主張は障害者個人の社会への適応を「援助実践」の主軸>252>に置いて、それと調和可能な限りでしか「社会」や「環境」への働きかけを許容しないからである。援助実践の主軸が「個人適応」から「社会改良」に移ることは絶対に認めようとはしないのである(251-252)。

・社会モデルの「臨床的」有効性への懐疑に対して

……しかし、社会学者も現場の臨床家も、こうした議論をする場合に「制度論」という中間項を忘れがちであるということを強調しておきたい。「批判的」社会学者は、価値意識批判といった超越的視点からの社会批判を得意とするが、そこで行き詰まるといきなり「臨床」といったミクロレベルに土俵を切り替えようとする傾向があり、メゾレベルの制度論が抜けてしまう。たとえば小泉は「権力関係と社会的不平等を変革したとして、(中略)臨床的な効果を期待できるわけではない」(小泉義之2004: 216)と述べるが、そう言えるのは、世界でもっとも自由で平等な医療保険制度を享受してきた日本人だからだと言えなくもない。アメリカのように、私保険と公費医療とに二極化している不平等な医療サービス供給制度という文脈のなかでは、医療制度の平等化によって病気は治ると主張したとしてもあながち錯誤とは言えない(253)。

 杉野は以上を受けて、社会学者の議論から「制度論」が抜け落ちやすいのは、普遍的な要因に関心を寄せている社会学者はローカルな「サービスの供給制度」に目が行かないからだとしている。また、臨床家たちも「臨床的効果の普遍性」に関心があるため、制度に目が向かないという。社会学者こそ、比較制度論をやってきた気もするが、これは障害学分野とか医療社会学、あるいはアメリカの社会学を念頭においているということだろうか。何となくわかるものの、違和感のある人もいるような気も。(あと、批判対象として小泉義之が妥当か。)