メモ【認知症】

第7章 「職員のかかわり」

「福さん家」では「専門家による質の高い支援」を追求し続けることを目標にしました。だから職員も毎日をただ過ごすのではなく、目的を持って意識的な取り組みや支援を心がけています。
 ここでいう「専門家による質の高い支援」というのは、専門的な見方や方法を優先して、入居者さんを支援する側の枠にはめて支援をしようというものではありません。入居者さん一人一人の状態や状況に応じて、職員の側が入居者さんに合わせていくのです。周辺症状が軽減したなどという目に見える効果だけに目を向けるのではなく、一人一人の入居者さんが生き生きと自ら生活をしていくことを目標にします(223)。

ここで宮崎らが言おうとしているのは、確かに周囲の関わり方によって、痴呆とされる人のあり様が変化するということであるが、目標とされている変化は、周辺症状の変化ではない。あくまで、「生活する主体」として変化していくこと。この「生活」というのは、なんなのだか評価をすることが難しいが、より長期的な関わりというか関係を目指しているということか。そのため、単なるコミュニケーション技術としてではなく、生活を組み立てる場としてケア論が語られることになる。
 スケジュールがなく自由な生活の保障(生活を組み立てることの難しくなっている利用者に対して、自分で好きなように生活していると思える支援を考える)、手を出さない支援(黒子に徹する、ただし相手から「引き出す」ように意識的に支援する)。

第8章 「「痴呆老人」という人はいない」
 

私たちは、とかく「痴呆老人」「痴呆性高齢者」「ボケ老人」という言葉を使ってしまいます。
 しかし、実際にそういわれる人と生活をともにしてみてわかったことは、それぞれの人は、「痴呆老人」になったのではなく、「痴呆状態になったその人」なのです。この違いは非常に大きな違いだと思うのです。
 「痴呆老人」とひとくくりにして、その症状は、徘徊・夜間せん妄・被害妄想・放尿・弄便・異食……などと周辺症状(問題行動)があって周囲を困らせる存在であるように思われています。でも実は、痴呆状態にある人は、一人一人みんな違います。部分的に短期記憶障害はひどいけれど、理解力や判断力は人よりすばらしい人、記憶障害や認知障害見当識障害は重度なのに、対人関係や人を思いやる気持ちや表現は非常にすぐれている人、長谷川式簡易痴呆スケールでは零点でも、ひょうきんでその人がいるだけで周囲をほっとさせてくれる人、と、みんな違うのです。>244>
 個性を持ったその人が、たまたま何らかの脳の障害を持ってしまって、そのことによって表現方法が場に合わなかったり、日常生活の一部にできないことが生じたりしているのだと思います。脳の障害のされ方も、その状態の表現も実に多様なのです。(243-244)

○周辺症状は消える(消すべき?)なのか、周辺症状があってもよく生活ができる、か?
 

昼間活動的に動き、よくおしゃべりし働いて入浴すれば、自然に夜間せん妄がなくなり、夜はぐっすり寝ます。それは自然の人間の姿です。また、放尿や弄便も、本人は何も変わらなくてもかかわり方次第で、その状態にならないように支援できます。
 徘徊といわれるものも、無意味にただ歩き回る方も中にはいるかもしれませんが、本人からしてみれば理由があって外出したり、歩いたりしているというケースが多いのです。その理由と気持ちを理解して、外出したければ外出して気持ちが満足するように支援すればいいでしょう。家や施設の中にいなければならないと思っているのは、支援する側の理屈でしかない場合が多いのです。定期的定時的に外に連れ出せばいいというものでもありません。その時の気持ち・気分があるのですから。
 その人にあった支援をすることにより、結果として周辺症状はかなり改善されるし、もし周辺症状があったとしても、それは生活する中で何の問題にもならない支援の仕方はあるのだと思う>250>のです。(249-250)。

と述べ、周辺症状を個性として考えていけばいいではないかという主張につなげていく。

○目標としての主体的人間(〝ゆったり〟〝穏やかな〟生活だけでいいのか)
 

私たちの開設当初の目標は、痴呆状態にある人が周囲を困らせる周辺症状がなく、落ちついて、ゆったりと、穏やかな生活が送れることでした。それだけで、本人も私たちもどれだけ幸せかと思ったのです。
 しかし、「福さん家」の入居者の生活や変化を見てきて、それだけでは駄目なのではないかと思い始めました。周辺症状がなく、穏やかに見える生活でも、リビングに座ってじっと何かを待っている、時に宙を見てぼうっとしている姿は、本来の人間の姿ではないのではないだろうかと。人がその人らしく主体的に生きていくということはどういう姿なのだろうかと、いろいろ考えさせられました。
 そして、今思っていることは、待ちの姿勢で受身で生きるのではなく、その人の内に隠れているさまざまな力、興味を自分から出して、それを実現することに挑戦する積極的な生きる姿が本来の姿なのではないかということです。「旅行に行きたい」「やったことがない趣味をやりたい」「紅葉を見に行こうよ」「今度は料亭で食事したい」などと、好奇心旺盛で目を輝かせている姿です。あるいは、「今日は寝ていたい」と自分の意思を表すことも自然な人の姿でしょう(254)。

積極的に生きる、意志を示すという点を目標としての姿においている。
あとがきで宮崎と日沼が書いていることは、グループホームの実践を通して感じたこと。
・わけの分からない人、問題行動と捉えていたのはこっちの勝手な見方だった
・ボケていることは問題なのか
・痴呆状態にある人と関わる時に最も大事なことは自分が変わること
グループホームでやっていることは療法ではない。普通の人間としての生活があって、療法があるとしたらその後にはじめてある。