メモ【リハビリテーション】【医療社会学】

  • 藤沢敏雄(1982)1998『精神医療と社会――こころ病む人びとと共に(増補新装版)』批評社

○変革に向けた働きかけ

彼[※東大精神医学教室の医局長時代に東大を去ることになった、現在は小説家の著者の先輩]の言うように、病院の現状を怒り、批判し、要求を院長につきつけるということぐらいで病院はかわりようがなかった。むしろ、自分が直接にかかわる病者の処遇について、いままでの慣習にとらわれずに黙々と実践的に処遇をかえていくことの方が、反撥や好奇の目にさらされながらも、精神病院に働いている労働者にじわじわと影響を与え、変化をもたらしていくものがあった。外出のさせ方、外泊、信書の自由、保護室の使用の方法といったことである。ただ、こうした実践的な改革が多少でも病院職員の共有された体験として広がっていくことは、ふたたび精神病院の治療者がつくりあげている秩序や堅い構造とぶつかることになるのである(31)。

○生活療法批判
 藤沢は、その後、松沢病院、国立武蔵療養所と勤務先をうつしていくが、その過程で生活療法を批判していくことになる。

小林八郎氏が生活療法を提唱したのは1956年であり、翌年1957年に第一回病院精神医学懇話会が開かれている。病院精神医学懇話会は、発足の当初に明らかに当時の大学精神医学が主導する精神医学のあり方に対する批判的視点をもっていたと考えてよい。そして、生活療法は病院精神医学懇話会の媒体として全国に流布されるのである。これは、向精神薬についての宿題報告が1957年の精神神経学会総会で行われ、精神科薬物療法が全国に拡がるのと期を同じくしていることになる。
 私が武蔵療養所で生活療法体制とどうしても真正面からぶつからざるをえなくなったのは、1967年秋ということになる。もちろん、生活療法にはじめから私が批判的であったわけではないし、それほど十分に生活療法について知っていたわけでもない。とにかく、日常的な実践の中で、「何故この看護長はこう考えるのだろうか」「何故このような不必要な規則が必要なのだろうか」「何故この病者を、このように評価してしまうのだろうか」といった具体的な体験の末に、「生活療法の思想」といったものにたどりついたのである。
 ……(中略)。 >56>
 生活療法の思想と私が呼んだものは、要約すれば次のようになる。それは秩序を重んずる思想であり、病者を静的に客観視し、動的な可能性を秘めたものとしてみない思想である。インスティテューショナリズム(施設症候群)という言葉がある。看護に代理行為という言葉がある。このふたつの言葉をつなげて説明すれば、こうである。看護における代理行為は、時に重要かつ不可欠なことである。しかし生活療法の思想では、この代理行為が無制限に拡大され、人間にとって一番重要な「自分の問題について自分で考える」ということについて、治療者が代理をして行ってしまうことを病者に強制し、病者が自分で考えることを放棄してしまうようにしてしまったのである。インスティテューショナリズムは、「過剰な依存性」を本質としている。主体的な判断、主体的な行動の欠如、受身といった内容である。
 小林八郎氏が生活療法を提唱した意図は、「病院環境の治療的な再編成」ということであったらしい。しかし、全国の精神病院と武蔵療養所に定着したものは、生活療法の思想にもとづく諸活動であった。これは、生活指導の思想とよんでもよい。「生活指導」あるいは「生活技術の訓練」一般を私は否定するつもりはない。しかし、病者の内面的な動機をぬきにして、あるいは内面的な世界と絶望や断念をぬきにして、「ああしろ」「こうしろ」「こうあるべきだ」といった指導をするこ>57>とが精神科看護の中心にすえられたら、これは意味がないだけでなく有害である(54-57)。