禁則を破る

 10年近くかかわりつつも、このテーマで書くことは意識的に避けていたのだが、ゼミでも扱っているし、考えるところもないことはないし、機会もできたので、チャレンジしてみることにする。
 とりあえず手元にあるもの、買ったものから。

  • 阿部真大2007『働きすぎる若者たち――「自分探し」の果てに』NHK出版 

前作に比べると、社会全体の構造や設計という点に重点を置いているようだ。前半のケアワーク論を読まずに、後半のインタビューあたりから読む。取り組む仕事と大いに関係のある前田さんとのインタビューを読む。介助(介護)の専門性の話。後半の親子間の相続の話まできちんとつながるか、どうか、この辺が読みどころ。

第2章と第8章をゼミで。ポイントは、介助における行為者と負担者の分離。更に決定者をどこに置くか。その決定のためにどういう給付の形をとるか、という話。

  • 前田拓也2006「介助者のリアリティへ――障害者の自己決定/介入する他者」『社会学評論』57(3): 456-475. 

 介助者手足論を障害者運動(青い芝)が主張してきた背景として。「なぜ他者の存在を忘却したと映ずるほどの主張をせざるをえなかったか。大きく2つの理由が考えられる。第1に、「介助者-利用者」というユニットの「外側」にいる第三者の「視線」の存在である。その視線とは、障害者に「障害者役割」(「障害者はこういったものだ、こうするべきだ」という期待)を押し付けようという、社会の多数派の視線である。それらはしばしば介助の場の安定したリアリティを寸断する」(460)。
 介助者を「単なる手段」として捉え、主張することが障害者の主体性を主張する上で重要であったことを確認した上で、現在の私たちは、「だが、一方で、介助のそれぞれの場においては、完全にそう単純化することもできないのではないか、という疑問」に取り組む必要があるとしている。
 岡原ら(1986)によるエスノメソドロジー的な方法による介助場面におけるパターナリズムに関する研究によると、介助においては、行動の目的(what to do)においては、障害者と介助者の間に共有がなされているが、それを実際に行う際の方法(how to do)においてコンフリクトが生じるとしている。それに対して、著者は、「手段の欠如があらかじめ予測できそうな目的(「アテが怖がる」からできないだろうという予測)が、介助者に提案されることはないだろう……」「手段の確保が可能だと予測されていてはじめて、目的が介助者の口から提案され、合意形成が図られるはずである」(463)と批判している。ここからは、介助においては、その介助者がどういった人であるか(能力、性格、関係性)によって、行為の選択肢が変ってくるということが言えるだろう。
 障害者にとっての「できないこと」の構成、立ち現れについて。寺本の以下のような議論を引用している。

「できないこと」は、行為のそのときどきによって常に構成されていく(認識される)ものであるから、「できないこと」に対応して支援することは、常に困難を伴う。それは、過去の体験を参照してあらかじめ「できないこと」を予想し、先回りして予想される「できないこと」に対処するか、そうでなければすでに「できないこと」が起こった後でしか支援をすることができない(寺本2000:37)
引用元:寺本晃久2000「自己決定と支援の協会」『Sociology Today』お茶の水社会学研究会10:28-41.

 自己決定する自立という見解と、その主張の中における介助者の位置づけについて、障害学を批判しつつ、以下のように述べている。

 「否定されるべきは、「自己決定する自立」そのものではなく、それが語られ、要請された状況や政治的文脈を無視して、「自己決定する自立」を「完成品扱いし、ドグマ化する」ことである。換言すれば、自己決定する主体があり、その決定を実現するために、透明で匿名の「単なる手足」たる介助者がいる、という風に、複雑で矛盾に満ちた現実を「あまりに単純化してしまった点」である」(470)。

 「現実の介助現場で、介助者は透明な存在ではない。同様に、介助「論」の中でも、介助者を透明な存在として語ることはできない。介助者の、現場でのポジションと言説上のポジションは、パラレルである必要があるにもかかわらず、実際には齟齬を来したままである。そうした議論を可能にしているのは、皮肉にも「介助者のリアリティ」を基本的に排除してきた「当事者学としての障害学」の議論そのものなのである」(471)。

  • 土屋葉2007「支援/介助はどのように問題化されてきたか――『福島県青い芝の会』の運動を中心として」三井さよ・鈴木智之編『ケアとサポートの社会学法政大学出版局: 215-258.
  • 星加良司2007『障害とは何か』生活書院


 この辺の議論について、最近はあんまり読んでいないが、何となく、実存や実際にかかわっているリアリティを全面に出すか、分配の問題としてゴリゴリと押していくかのどちらかに落ち着いているような感じがする。うーん、実はあまり新しいことは何も言えないような気もするが。