反省

 大学院の授業では、役立つ=短期的な合理性を基準として価値あるものではなく、ためになることをしましょう、とか言っておきながら、自分自身まったく研究できていない。授業の準備ばかり。
 これではいかん。ということで、メモくらいはつけて読書を再開していこう。
 と言っても、授業と関係したものが多くなるとは思う。

若月俊一1971『村で病気とたたかう』岩波書店岩波新書

Ⅰ 農民の中へ
Ⅱ 試練をのりこえて
Ⅲ 病院の発展
Ⅳ 農村医学のはじまり
Ⅴ 村の健康管理
Ⅵ 変貌する農村の中で
Ⅶ 農村病院の展望
おわりに

佐久病院の名誉院長。Ⅳでは、農村における健康が生活における合理性によって影響を受けているということへ気づいていった過程、研究を進めていった過程が記され、いわゆる「予防的医療」の実践の主張へとつながっている。「村の中には、『潜在疾病』があまりにも多い。これを早期発見することが緊急の任務」。「それと同時に、病気を予防するには農民自身の健康に対する自覚が何よりも大事だ、という認識から啓蒙宣伝の仕事にも力を尽くすようになった」(156)。

何といっても農村の健康問題で基本的なことは、農民が昔から健康というものをギセイにして省みないということである。村の中では病気が病気として診てもらえず、放ったらかしになっている。つまり「潜在」しているのである。この点が都会と大いにちがう。これは病気がまだ初期で、自覚症状がはっきりせず、うっかりして医者に診てもらわなかったなどという場合とはちがう。あちらが痛い、こちらが苦しいという症状がすでにはっきりあるのに、なんだかんだといって医者に診てもらおうとしないのである。つまり、医学的にでなく、社会的に「潜在」しているのである(118)。

……。たとえば、二月にはいつも病院の患者が減るのは、病気が減るのではなくて、雪のためにこられないのである。また、田植の時に病院の患者がぐっと減るのは、田植の時に健康状態が良いのではなくて、逆にからだのぐあいは悪いのだが、忙しくてこられないのである。そういう社会的な要因で「受診が抑制」されている。つまり患者は、いろいろな社会的要因、多忙、貧困、僻地性、気がね、とくに健康犠牲の精神などによって、病院に来ない、村の診療所にさえも来ないのであって、このことが病気を「潜在」させるもとになっている(119)。

 農家のお正月に「お呼ばれ」にいって、ごちそうになる。こちらはお父つぁんとこたつ酒でいい機嫌なのであるが、ふと気がついて、いったいおっ母さんはどうしてるのだろうと、小便>122<に立ったついでにのぞいてみると、寒々としただだっぴろい台所の片すみにしゃがみこんで、かまどの傍でお酒のおかん番をしているのである。これじゃ昔のようにイロリがあった方がよかったでやすなあ。改良かまどにしてから、まったく冷えがからだにこてえやすよ。そこで、なんでそんな冷えものをわざわざいれたのさと聞いてみると、だって、燃料費が三分の一ですみやすからなあと苦笑い……。
 その時私の頭にあるお役人の話がうかんできた。「農民の心が暗いのは、あの日本の農家の暗さに原因すると思う。私はアメリカの農家をまわってみて、白ペンキを毎年ぬりかえる、明るい台所をみて、つくづくそれがわかった。第一、いろりの火は不経済きわまる。まずイロリをなくしてあのすす煙をなくすことが、生活改善の第一歩でなければならない」と。たしかに戦後「改良かまど」は、わが国の農村に大変な普及をみせた。「生活改善」事業でこのくらい国中に広く普及したものはないであろう。だが、農民がそれを喜んだのは、改良かまどにすることによってゼニコが浮くからであった。おっ母さんがいったように、燃料費がイロリの時の三分の一ですむのである(122-23)。