平岡公一編2001『高齢期と社会的不平等』東京大学出版会

 また脱線。

高齢期と社会的不平等

高齢期と社会的不平等

 この論文集は、高齢期における社会的不平等・貧困研究の展開を目的に編まれたものである。東京都23区内の65歳以上の高齢者(サンプル男性500、女性500)に対して行った質問紙票調査から得たデータを分析した1部と、その分析を踏まえて、「消費社会における貧困研究」「相対的剥奪指標の開発」「社会的不平等・社会的公正の概念的整理」などの理論的展開を試みている2部に分かれている。

 まず、いい論文なのかどうかはわからないが、面白いと思ったのは、柴田謙治論文(1部4章「低所得と生活不安定」、2部1章「消費社会における貧困研究の視点」)。この2つの論文はつながっていて、1部4章の最後に問いが出され、2部4章でその問いについて理論的に解答を試みていくという展開になっている。

 柴田さんは、まず、今回の調査データをもとに、低所得と生活不安定層を記述統計的に示したり、要因について分析を行っている(1部4章)。しかし、その分析からは、はっきりとした貧困や生活格差というものを見て取ることができなかった。
 ここで、柴田さんは、以下のような問いを立てている。その結果はすなわち、貧困や格差というものの問題設定が必要なくなってしまった事を意味するのか?
 そこで、2部1章では、消費社会である現代社会において貧困や格差を語るときに考えていくポイントを論じている。端的に言えば、「生存」基準ではなく、消費や生活の社会化といった面を考慮に入れなくてはならないといった議論で、具体的には、ラウントリーの貧困調査や、日本の生活構造論などに遡り、潜在的不安定という概念を紹介している。

 おそらく、「豊かな時代における不平等」というような感じの、この分野の人には、オーソドックで当たり前に思える議論なのだろうが、こうした議論に通じているわけではない私にとっては、面白かった。特に、潜在的不安定という概念。実際に困窮しているというよりは、消費費目において、消費や社会保険などの制度などに依存(生活の社会化)しているために、不安定性が発生する。介護における、フロー(介護費用)とストック(住宅条件)の話とかにもつなげていけそう。
 個人的には、年齢を重ねていく個人が経験する(非常に狭い意味での)「リスク」意識とこの潜在的不安定という操作概念とのかかわりを考えることができるのではないかとも。

 ちなみに、この編著の他の章。藤村正之さんのサポートネットワークや医療情報の階層差などを議論した1部1章「社会参加、社会的ネットワークと情報アクセス」や、「健康の不平等」を検討した深谷太郎さんの1部2章「健康と心身機能」は、テーマ的に非常に興味がある。
 しかし、前者は、やや総論的でもう少し分析が欲しいという感じ。調査報告という色彩の本なので仕方ないのだろうが。ただ、高齢期の人間関係が、「結合定量の法則」(高田保馬)ではなく、関係を持っている人が累積的に関係を広げていく(と解釈できる)という指摘は、意外ではないが、やっぱりそうかと興味深かった(結合定量云々は、藤村さんが言っていることではない)。
 また、後者は、調査報告書であるということを差し引くとしても、そもそもの問題意識と結論が「介護予防が大事ですよ頑張りましょう」って感じで、なんだかなあ、と。むしろ、素人興味で言ってしまうと、客観的健康(健康度自己評価)と主観的健康に影響を与えている変数の違いに対して、もうちょっと考察を展開できないかと思った。
 たとえば、客観的健康では社会階層要因は、ライフスタイル要因を加えるとなくなってしまう。その結果について、客観的な健康の差異は、社会階層に所属することで獲得するライフスタイルに起因すると分析される。一方、主観的健康の不平等は、50歳時の所属階層にのみ依存するとされる。
 以上の違いはどう解釈すればよいか。妄想の範囲だが、たとえば、健康文化・規範の普遍的な浸透と、資源の不均等の間のズレが、階層差を生み出していると考えることはできないか。つまり、低階層の人も健康は重要だと思っていて、テレビで見ているような様々な手段に対して関心を持っている。しかし、それを実行するだけの資源・手段が、高階層の人に比して少ないため、常に自分は、目標に達していないと感じる。そのために主観的健康は、低く評価される、というような。
 深谷さんは、都老研の人で、おそらく心理学ベースだから、問題設定がこの範囲になってしまうのは仕方ないのではあろう。しかし、「健康の不平等・格差」というなら、文化・規範面も含めて、もうちょっと深く考えてもいいのではと思ってしまう。特に、せっかく主観的健康という変数を別に出しているので、単に測定方法の違いということにとどめるのではなく、客観、主観、それぞれの健康度が何を測っているのかについての考察が必要ではないか。

 ところで、昨日、医学生当初から、社会保障や福祉に関心を向けていたという、元医師の近藤克則さん(日本福祉大学)の『健康格差社会』(医学書院、2005年)という本を買ってみたが、この人の議論はおそらく疫学、公衆衛生学に近いんだと思う。疫学や公衆衛生学として格差について議論するのでないとしたら、どういう風にやれるのだろうか。山崎先生(健康社会学)や石田浩先生(社会学?計量社会科学?)はどういう議論をしているのだろうか。ここでまた「社会科学としての医学」というイッチー的問題設定が戻ってくる。