買った本【中井久夫】【精神医療】【震災】

災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録

災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録

  • ボランティアの意義

 一般にボランティアの申し出に対して「存在してくれること」「その場にいてくれること」がボランティアの第一の意義であると私は言いつづけた。私たちだって、しょっちゅう動きまわっているわけでなく、待機していることが多い。待機しているのを「せっかく来たのにぶらぶらしている」(させられている)と不満に思われるのはお門違いである。予備軍がいてくれるがこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる。われわれが孤立していれば、漂流ボートの食料や孤立した小部隊の弾薬と同じく、自分のスタミナ(この時期には資材はいちおう順調に届いていた)をどのように配分し「食い延ばし」たらいいかわからない。そして、われわれの頭はやはり動員可能な人員をベースにした発想しかできないようになっている。三人しかいなければ三人でできることが頭に浮ぶし、七人なら七人でできることがというふうに(われわれの精神医学教育はリアリズムを基礎とし、実現不可能な願望思考をしないように訓練してきたものであった)。人が増えればそれだけ分、あたかも高地に移ったかのように見えてくる問題の水平線が広大となる。新しく問題が見えてくる。新しい問題が発生した時にも対応できるようになる。そして実際、日々、問題は新しくなる。これは事態の変化によるものでもあると同時に、われわれが発生する問題をとに>>65>>もかくにも解決して行っている場合に特にそうなるのである(64-65)。

  • 異質性が存在する街・神戸

 加害者が一人もいなかったことは精神科患者の名誉のためにぜひ言っておかなければならない。それどころか、主治医の多忙を思いやって電話をかけることさえためらうのが特に統合失調症患者であった。
 実際、兵庫・長田地域は、独り身の老人、外国人あるいは障害者に部屋を拒むことのほとんどない地域であった。私どもの韓国籍スタッフの証言である。医師、医学生という地位のあるせいも多少はあるだろうが、それでも他都市では自分なり友人医師なりに拒否経験があるというのである。また私の往診先の患者の部屋は確かに鼠が走っていそうであったが、家賃は一万二千円であった。受ける側には不満もあろうが、全国的にみて福祉の厚いところでもある。この焼失は、都市計画者には地域をビューティフルな街に一新する絶好の機会であろう。彼らのための住宅を辺地に置こうという声が聞こえなくもない。しかし神戸のホームレスは市民との間に暗黙の交感がある。働かない者を排除する気風はない。かつてある盛り場の「ホームレスを取り締まれ」という投書に対して「そういう人が少しはおられるのが街というものではないでしょうか」という市側の返事を新聞か広告で読んで感嘆したことがある。十年前のことであるが、このスピリット>>68>>行政に今も生きていてほしい。ホームレスの人は避難所の炊き出しには現れているかもしれないが、断固彼らの生活習慣を守っている。避難所には行かないのである。彼らの囲みは頑丈になった。損壊オートバイ数台を外壁とする囲みをもみた。しかし、彼らは宝くじ売り場、神社の外壁のたぐいに囲みを作り、個人商店の前などには決して作っていない(元町から神戸駅周辺の見聞)。(67-68)

  • インフラを前提としていた医学

 私が改めて感じたのは、われわれの医学が、ガス、水道、電気の存在を空気のように前提としていたことであった。かつて、冗談まじりに「医師国家試験には電気のない条件でかくかくの疾患を治療せよといった問題を出すべきだ」と言ったことがある(もっとも、日本医師のそのような条件下での行動力は十年前に比べてかなり向上していると私は思う)。それだけでなく、われわれが運営していたのはコンピューター化された医学であった。中央化・自動化したカルテ室は崩壊しなかったが、恒温に保つ装置が停電のため作動しなかった。自動化されたカルテは隙間なく集積されていた。手動でカルテを取り出すことになれば棚が崩壊していなくてもおそらく困難であったろう。(71)

そのほか、

  • 精神科医が校長先生を苦手としていること。精神科医の中にいじめられっこだった人が多くいるという話。(学校的価値に合わない)(81-82)
  • 居住民の階層とPTSDとの関連。移動先での受診(社会的条件と精神医学的疾病の発生の問題)(85)
  • エリアス・カネッティの『群集と権力』に照らした時の今回の暴動のなさ(*『災害ユートピア』が参照されることの多い311言説との違い?)(92)

など。現場の医師たちの行動を「全体的に承認して、個別的に追認する」という表現になるほど、と。