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障害受容再考―「障害受容」から「障害との自由」へ

障害受容再考―「障害受容」から「障害との自由」へ

なんだ、あれが僕たちの探している青い鳥なんだ
僕たちはずいぶん遠くまで探しに行ったけど
本当はいつもここにいたんだ

ありがとうございます。紹介はあらためてしたいと思います。

■目次

 はじめに

 第一章 なぜ「障害受容」を再考するのか …1

 第二章 日本における「障害受容」の研究の流れ …13

 第三章 「障害受容」は一度したら不変なのか …37

 第四章 南雲直二氏の「社会受容」を考える …61

 第五章 臨床現場では「障害受容」はどのように用いられているのか …95

 第六章 「障害受容」の使用を避けるセラピストたち …113

 第七章 教育の現場では「障害受容」をどのように教えればよいのか …131

 第八章 「障害受容」から「障害との自由」へ――再生のためのエネルギーはどこに? …147

 補遺 …187

 おわりに …205

追記(8月13日メモ)
 ずいぶん前に読み終えていたのですが、感想などまとまった文章にできずこんな時期になってしまいました。まず、読みやすくて、社会学プロパーの人だけでなくて、著者が読んでもらいたいと思っているOTなどのリハ・プロパーの人も手に取って読める内容だと思います。現役のOTの人が、「障害受容」ということを問い直すということは、パフォーマティブな意味で、とても重要だと思うし、内容も上田理論うさんくさいぞ、社会受容論ってなんだかなあ、と思っていたところにしっかりと言葉を与えていて、とてもすっきりした感じがします。
 その上で、やはり市販するために短くしたこともあり、論じきれていない部分もあったのではないか(もう少し突っ込んだ分析が欲しい)という気もします。これは、本でも参照されているように元の論文に立ち返って読めばよいわけですが。
 以下では、この本の最後の8章、補遺について、「評」とまではなっていないのですが、感じたことを。メモ書きをそのまま貼り付けでいいっぱなしぽくて申し訳ないけど。

  • 問いに対する答えについて

 能力の回復・改善の軸をはずしたリハビリテーションの存在可能性を探るというのがこの本を書く第一の問題意識。 → この問題に対して、補遺で『私の体を探して』で行われていることを紹介することによって、「存在するよ」という答えを出している。
 → しかし、ここではさらに踏み込み以下のことが考えられないか。すなわち、ここで行われているのは、リハビリテーションなのか?と。リハビリの専門資格を持つセラピストが当事者と共になしている実践であることは確か。だが、<リハビリテーション=リハ専門職のやっていること>なのか?同じようなことは他の人でもできないか?できないのだとするならば、リハビリテーションとは何か?リハの理論や方法とはいったい何か?それだけ重要なものか?(取り上げられている例でいうと、認知行動療法というリハ内部の理論の理屈に依存しない形で、そうした問いへの答えが欲しい。)
 すなわち、この研究の後には、リハビリテーションとは何か?(国家資格を認定するような専門領域を作ってやるべきようなことなのか)という大上段の問いが待っているのではないか?リハビリテーションの実践者としてどういった立場に立つか?(臨床心理学に反対する社会臨床学会みたいな立場になるか、それともリハ専門職に踏みとどまるか)。

  • 内在的な障害観と外在的な障害観

 第8章を読んで気になったのは、「内在的な障害観」という言い方。ご自身も補遺で星加本を参考に論じているように、障害を抱える本人の障害観も外からの否定的なまなざしなどの影響を受けて構築されていると思われるので、あたかもそうした外部からの規定に先立って本質的にある(と規定されているように見える)「内在的な障害観」は、少しナイーブではないかと感じた。

(※一応言っておくと、その印象は8章までに強く感じたことです。繰り返すと、それについては、補遺で少し反省的に問い直されています。補遺では、星加本を取り上げて内在的な障害観(非制度的位相の障害)が、制度的位相に影響を受けているということが紹介され、著者自身、そうした発想に同意しています。なので、著者は生のままの障害のようなものを、現時点では、そのまま措定している訳ではないとは思います。)

 しかし、「内在的な障害観」というのは何か。田島さんの論の立て方だと、本人が感じている障害という以上に、「本来あるべき・自然な・他者としての障害・差異」というような意味が込められているように感じられるが、本当にそうか。補遺の中里さんの実践の部分を読んでいて、どうもそれは、はじめからあるものではなく、セラピストと障害をもった人との相互作用の中で、形作られていくものなのではないかと感じられた。すなわち、内在的な障害観がまずある(生の身体感覚みたいなものがまずはある)というのではなくて、セラピストの実践の中で、それは形作られていくようなもの?だとすると、セラピストの目標は、内在的な障害観(他者としての障害?)に気づかせること?それを感じられるように何らかの働きかけをすること?なんかそれも違うような気がするが、どうなのだろうか。

  • セラピストはどういう実践をすればよいのか?

 上と関連して。
 著者は「社会的に生成される障害への否定的価値付与を問題化していない障害者の支援に関する研究・言説は極めて危ういと声を大にして主張しておきたいと思います。なぜなら、障害のある人の苦しい感情経験の多くは、制度的位相、非制度的位相を含めた、社会的に構成される障害に対する否定性に由来しているからです。また、障害(自己)の肯定は、社会に対しても、自己の内面においても、当事者にとって闘争と呼ぶにふさわしい激烈なものであるにもかかわらず、社会的に生成される障害への否定的価値付与の問題を等閑視する支援のあり様は、社会的変容に向けた本質的次元を見失い、良好な関係性を第一義とする安易な関係性主義に陥りかねない」(191-192)と述べている。
 これは分かるのですが、では、ここから導かれるセラピストへの実践論はどういうものとなるか。社会的抑圧の存在に気づけということになるのか、気づいた上で社会変革的なことをせよ、ということになるのか。たぶんここで言っているのは、障害に対する否定的価値があるのだから、安易に受容とか肯定といった方向に導くような支援・議論(これはSHGを強調する南雲の社会受容論も含む?)は、だめだということに気づきなさいということなのだと思う。まずはそうしたメッセージをリハ業界に伝えるということは十分意味があることだと思うけども、それ以上のポジティブなメッセージをセラピストに対して発せられるか(発信しようと思っているか)。これは杉野さんの『障害学』における社会モデルに基づくソーシャルワーク論とつながる話のような気がする。
 杉野さんの議論だと、社会モデルに基づくソーシャルワーク実践は、それを実践していく制度的基盤やインセンティブがないから困難だというような話だったように思う(うろ覚え)。だとすると、技術論が中心となるリハの世界にも同様のことはないか。何となく、考察課題として、社会制度とかを気にするセラピストにインタビューをして、いかにそれが困難か、挫折してきたか、というようなことを明らかにしていくといったことをやる必要があるような気がする。やはり著者自身がOTの実践者である以上は(社会学のお気楽な立場からすみません…)。