プロセス・エンドポイント【質的研究】

質的データ分析法―原理・方法・実践

質的データ分析法―原理・方法・実践

 たくさん本を出しているなあ。この人の議論においては、研究の終了する時点が、『暴走族のエスノグラフィー』や演劇のフィールドワークなどのレベルの「厚い記述」にいたること(を目指しているはず)なので、そこまで到達する前段階の研究は、「薄い記述」として位置づけられてしまう(もちろん、著者もその不完全なものに意味がないと言っている訳ではないが)。著者が挙げる7つのタイプの「薄い記述」は以下。

  1. 読書感想文型 主観的な引用や感想を中心とする、私的エッセイに近い報告書や論文
  2. ご都合主義的引用型 自分の主張にとって都合のよい証言の断片を恣意的に引用した記述が目だつもの
  3. キーワード偏重型 何らかのキーワード的な用語ないし概念を中心にした、平板な記述の報告書や論文
  4. 要因関連型 複数の要因間の関係を示すモデルらしきものが提示されているのだが、その根拠となる資料やデータがほとんど示されていないもの
  5. ディテール偏重型 ディテールに関する記述は豊富だが、全体を貫く明確なストーリーが欠如している報告書や論文
  6. 引用過多型 「生」の資料に近いものを十分な解説を加えずに延々と引用したもの
  7. 自己主張型 著者の体験談や主観的体験が全面に出すぎており、肝心の研究対象の姿が見えてこない報告書や論文

 いや俺だよ俺という感じであてはまるけども…。

 しかし、みんながみんなこのレベルの研究、あるいは佐藤さんのような方向性をやるというのは現実的ではないので、個人が質的研究を行なっていくプロセスにおいては、自分が現在どういった段階のアウトプットを出せる段階にいるのかを意識しておくことが大事ではないだろうか。その意味で、不完全な質的研究の類型分けは自分をチェックする鏡として役に立つだろう。

 これから質的研究(と言ってもそれがなんなのかよく分からないが)を続けていく人に対するアドバイスとして重要なのは、研究の段階によって問いの性質が異なってくるということを意識してやっていく必要があるということだろうか。やはり佐藤郁哉さんの『フィールドワーク』だったかで、フィールドワークは仮説生成型といっても、まったくNO仮説でいくわけではないという感じの記述があったが、その時点時点での素朴な疑問はあるわけでそれなしには研究はスタートしない。大事なのは、その問いや仮説を洗練させていく過程が長期的な研究プロセスである、ということを意識した上で、その時点時点の問いや仮説の水準に応じた短い論文を生産していくことであろう。

 経験的には、1)フィールドに飛び込んで手当たり次第に集めたデータをGT法やKJ法的な形で類型化して提示していく段階、2)それを踏まえて何らかの理論や概念と関連づけて考えてみる段階、あるいは頭で理屈を組み立てる段階、3)二つの段階を踏まえて全体の問題設定を立てた上で、必要なデータを編集し集める段階といった感じで進んでいったように思う。(※ただ、やはり3)の段階に入ると、ストーリー先行で恣意的に事例を集めているだけではないか、という批判が出てくる。このことをどう考えるか。たとえば、理論研究とか歴史研究でもそういった問題は出てくると思うが、おそらく、明らかにする「事実」というものの性質が違ってくるだろうから、そう問題にならない(というか、そんな素朴な形での批判にはならない)のだと思うけども。)

 やはり3)の段階に至った議論に共感が得られるかどうかは、「筋目」を読む力というか何というか、先行研究とか現在の問題状況とか、そういったものと上手く対応しているな、と感じられれば、ということになるように思う。そういう意味では、科学性とは別の基準が、研究の評価に入ってきているのかもしれない。「確かだが面白くない」「面白いが確かではない」とかいう話があったな。二分法が、そのまんま量と質に対応する訳ではなくどんな研究でも言えると思うけど。
 

 こうした方法論の議論において、技法を解説する教科書が必要なのは確かだが、いつも思うのは、その技法をどれだけまじめに実行できるのかということだ。何というか、技法を取り出して単独で議論するのではなく、そうした技法を実践していく前提の、研究者のおかれている制度的条件とかライフスタイル的条件とかを考えることが重要なのではと思ってしまう。
 たとえば、上で述べた3)段階の研究を非常に短い投稿論文という媒体で出すことは大変だと思う。なぜならば、その研究がどういった文脈にあるのかということを説明することがとても困難であろうから。その人のことを知っている人が査読者ならばいいけどねw
 また、細々した3年から5年くらいで完結する研究プロジェクトにかかわらなければ食っていけない人なんかは長期的な計画を維持し続けることは困難で、目先のデータをとりあえず年度末にまとめるという作業をくりかえしていくしかない。そうした中で求められるのは、手近なデータ整理のためのツールであって、その一つとしてGT法などが、言わば「物象化」した感じで流行っているのでは、と思う。
 さらに、質的研究における共同や分業をいかに達成していくか、ということも課題ではないか。そもそもGTにしても何にしても集めたデータのスーパーバイザーとか共同解釈者みたいな人を方法の中に取り込んでいて、それは、結局、質的データは多様に変換可能だから、議論し合う人がとにかく必要であるということだと思う。しかし、それが共同での研究会などの文化が廃れた(と勝手に思っているだけ?)の大学院文化の中でできるのか、お忙しい先生は分析過程につきあってくるのかとか。分業しての巨大プロジェクト(エンドポイントとプロとコールが明確になっている)中心の研究体制の中でできるのかとか。色々と考えられることはあると思う。そうか、そういう友達を見つけるために「コミュニケーション能力」を磨きましょう!かw

 でも、こんな話ばかりしていても「手軽な処方箋」にならないので、もっと違うことを考えることにしよう。