脱ジェンダー化されたケア論批判【看護】

 上野千鶴子はメイヤロフ、ギリガンを(特定の文脈において)評価した川本隆史鷲田清一などを、脱ジェンダー化された規範的アプローチと位置づけ、「歴史的社会的文脈のもとで、ケアがいかに配置され、遂行されるか、という経験的な問い」に応えようとしていないと述べる。そして、ダニエル・チャンブリスの議論を評価する。

ケアの倫理を論じた社会学者の研究には、ダニエル・チャンブリスの『ケアの向こう側』[Chambliss 1996=2000]がある。組織論の研究者であるチャンブリスは、詳細な観察とインタビュー調査にもとづいて、看護職の倫理的ディレンマについて論じたが、彼の結論は明快なものである。倫理を問うためには、選択の自発性とそれに伴なう責任がなければならないが、多くの看護職が置かれている状況は、医師との権力的関係における従属的なものである。看護職が「自律的決定者」であるという想定が非現実的であれば、看護職に「倫理」を問うことはむずかしくなる。そしてチャンブリスは、この状況が多くの女性(職)に共通することを指摘するのを忘れない。ケアの与え手に共通するのも、同じ状況である。ケアが強制労働であるような現実のなかで、倫理を問うことは何を意味するだろうか。彼がこのような結論に達することができたのも、彼が「ケアが何であるべきか」ではなく、「ケアが実際に何であるか」を、経験的観察にもとづいて、研究した結果である。わたしたちに必要なのも、このような態度であろう。そして組織論の研究者であるチャンブリスが看護労働を権力関係の文脈において理解したように、ジェンダーという変数は権力をめぐる変数にほかならない(35)。