続き

この人はすごい面白いかもしれない。

http://www.sekishinkai.or.jp/ishii/opinion_tc04.htm

「老人終末期医療」という言葉の怪しさ
 − (脳死から安楽死へ、「死」の拡大政策) −

 そもそも「老人終末期医療」という概念自体を成立させる必要性はあるのだろうか。脳死の場合と比べてみよう、脳死では、延命医療を行おうが停止しようが、心臓停止までの期間は数日である。そのため治療の停止が最大の問題ではなかった。臓器移植をめぐる利害が本質的対立であった。臓器移植を受けなければ死ぬことが確実な人の生命と脳死患者の生命をどう考えるのか、医師も脳死患者の立場から発言する場合と受け手の患者の対場から考えるのでは、視点が逆であり、きわめて難しい立場に立たされた。それでも脳死の場合は、定義の上では脳の生物学的死という客観性を持ちえた。そこに歯止めが存在したといえる。ところが「老人終末期」という概念は、「死が近づきつつある」というあいまいな定義だけがあり、そのように定義した患者に対しては、医療を施すべきではないと主張される。治療停止の理由は経済的であるにもかかわらず、人間の尊厳の問題であるかのようにすり替えられながら。これまで「生活の質」と理解されたQOLは「生命の質」と翻訳されることにより、本人からみた治療への評価・選択の意味から、他者から見た質の評価を意味するものへと変質した。そのため他者の持つ障害者・病者への差別感がとりこまれ、他者が社会へと拡大し「尊厳なき生命」への軽蔑に重点が置かれるようになった。
そして脳死の場合のように、二つの生命の間で揺れ動いた、選択の悩みもなく、あいまいな定義のまま、治療の停止という消極的安楽死が、「老人終末期患者」に検討されるべきであると主張されるにいたっている。助かる命を見捨てることを「ターミナルケア」と強弁し、「死の自己決定」が賞賛され、「自己決定」をしない老人は「死生観がない」と非難される(社会保険旬報2001.1.11座談会)。しかも「死に直接つながらず、死期も予測できない」患者をも「老人終末期」と呼ぶ(医療経済研究機構の終末期医療報告書)ことが通説化しつつある。この「老人終末期」の実態は、広井氏の段階では、あいまいにされていたが、いまや「要介護者」「ねたきり老人」がそれにあたると「識者たち」は公然と主張する(前述座談会)。さらに要介護老人への医療は「医師の良心からして治療をやらざるを得ないでしょうから、そういう人たちが医療機関にいないようにしておく(西村周三)」ことを検討すべきとの意見も公然と提案されるに至っている。

終末期概念の怪しさと分配問題

老人の慢性疾患にあっては、死期を予測できず慢性疾患終末期なる概念は一般的に成立しがたい。にもかかわらず老人終末期をことさら問題にするのは、終末期概念を歯止めなく拡大して、障害をもち、介護を必要とする老人すべてに適用することによって、老人医療費の抑制をしようとしているからである。このような動きが強まったのは、老人医療費の増大の本質が、制度の問題でも医療費の非効率的運用でもなく、老人人口の増大にあり、国民負担率という枠にはめられた医療・福祉費の中での配分では収まりがつかないからに他ならない。しかし社会資源の配分問題であるならば、なにが最大の浪費であるかが問われなくてはならない。社会的資源を本当に浪費しているのは、医療なのであろうか。

在宅ケア推進による老人医療費削減という方針の錯誤

その上介護保険では、在宅ケア推進による老人医療費削減効果をうたったが、そのメッキも剥げ始めた。もともと在宅ケアの推進と、医療費とは関係のない話である。在宅ケアの推進は、これまで自宅で医療からも介護からも見捨てられていた老人障害者を救済することに意義があり、医療・介護の社会的コストを増大させることはあっても、減少させることはない。また老人のQOLの点で問題がある社会的入院を減らすのは、在宅ケアへの援助だけでは無理であって、施設介護を充実させねばならない。その代わり施設介護費が増加する。それを嫌って、介護保険適用の療養型病床を抑制しようとした結果、医療保険適用に過半の療養型病床を残した。せっかく介護保険をつくりながら、相変わらずの問題の先送りである(もっとも、医療保険適用の療養型病床群のおかげで、介護保険の欠陥が救われているのは皮肉である)。

「自立・自己責任」の変質

介護保険での「自立支援」という高邁な理想が、要介護者の多くを占める痴呆老人への対応を正しく考慮できなかったため、制度は現実と遊離している。介護保険における最大の難点が「自立」出来ない、「自己責任」のとれない痴呆老人への対応であることは、制度発足前から指摘されてきたが、未だに解決の方向は見られない。そのため「自立・自己責任」の強調が障害者の安楽死のすすめに転化しない保証はない。痴呆老人切り捨てへの歯止めが必要である。このような状況下では、成人病を「生活習慣病」と言い換えることによる、健康キャンペーンも、健康教育の普及を図る反面、「生活習慣であるから個人の責任であり、生活習慣病にかかる人間は非難されるべきであり、社会が面倒を見る必要がない」という考えを助長し、「生活習慣病」という言葉も病者への差別用語となる。成人病の原因は、個人の習慣だけによるのではなく、遺伝的素因、社会環境のなどさまざまな要素をはらんでいるからである。
「福祉のターミナルケア」の提唱者が、自己決定とともにおかしな死生観を持ち出してきたのは、偶然ではない。本来のQOLの向上にむけて、自己決定を重視するのは当然であるが、死生観とQOLは全く関係がない。どのような死生観を持とうともQOLは高めなくてはならないからである。QOLが本来の意味を外れて、「尊厳なき」生を否定し、安楽死を選択させるための概念に変質したため、関連が出来たのである。自己選択の意義も「良い介護」をつうじて生を選択する意味から、死を自己選択することへ意味が転換した。

そして老人の医療を介護によって代替できるという誤った考えが、医療経済学者に蔓延し、老人からの医療の取り上げを正当化した。だが社会的入院は、介護を医療で代替しているわけではない。病院で誤った医療と不十分な介護を行っていただけであり、老人には医療を少なくすることが正しいということを意味しない。定額制になった今でも医療も介護も不十分なのが社会的入院である。現在の長期療養者の医療と介護の問題点は、介護を必要とする老人の生活を保障する社会システムを用意してこなかったことにある。その状況は介護保険によっても変わってはいない。