読んでいる本

  • コミュニケーション

コミュニケーション (社会科学の理論とモデル)

コミュニケーション (社会科学の理論とモデル)

 一応、コミュニケーション論なもので。現在執筆中の原稿と学会報告に向けて。コミュニケーションを説得達成の相、リアリティ形成の相、情報環境形成の相の三つに分ける。ルーマンのルの字も出てこない、社会心理学の重鎮。

  • 二次分析

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

 二次分析ゼミに向け再読。今読むと忘れているところも多い。新書という分量を前提としているということもあり、厳密に方法に注目して読むと粗だらけなんだろうな。しかし、そこだけに意味があるわけではない重要な本。誰もが書いていい本ではない、ということだと思う。この著者だから書く意味がある。

  • 精神医学と記述

新・精神科医のノート (みすずライブラリー)

新・精神科医のノート (みすずライブラリー)

 ガーン、新版が出ていたのか。読んでいるのは76年に出た旧版の方。いわゆる社会モデルを考えていく上で、反精神医学(著者はその立場ではないが)の歴史は、非常に興味深い。認知症ケアにおいても、相手の意思・意図を解釈していくというとき、バリデーション的発想(存在論精神分析)で行くか、即興劇モデル(郵便的?)で行くかでまったく異なってくる。また、コミュニケーションの中で生じる責任をどう帰属させていくかが大きな論点。こんなことを博論でずっと考えていたが、まだ稚拙な話しかできていない。

 ちなみに、紀要論文であるが、福島真人2005「アメリカン・アサイラム――精神病院民族誌科学社会学の起源」『超域文化科学紀要』10:7-34は、社会学や人類学が、医療実践を記述するという営みを考える上で、とても興味深い論文。
 実践家ではなく、社会科学者が、精神病院民族誌に携わることの意味。ゴフマンの記述は、精神分析的タームを不問に付す(妥当性を問わない)ことで、インパクトを持ったが、一方、精神病院の実践家の記述は、被説明項である精神分析的事実と、説明を不問とする精神分析的タームを恣意的に峻別してなされている。こうした発見から、福島は、科学社会学におけるアポリアとの同構造を導きだしている。